Lesson

読んだり、飲んだり

食わず嫌い

どうにもミーハーな気がして手をつけないものが往々にしてある。私の場合はそれは谷崎潤一郎である。この作家に言及しない作家や批評家、研究者は果たしているのだろうか。事実この作家の作品には抜群に面白いものが多い。しかし、言及する者の絶対数が大きいぶん、その中身はピンキリで「なんかエロい」とか「普通の小説っぽくない」みたいなものも散見される。こういった評価も谷崎の重要な一側面をおそらく(無意識にせよ)捉えているのだろうとは思う。そういうキャッチーさが何というか妬ましくもあって遠ざけていた。

今回、課題とされたこともあって何とはなしに短編をいくつか読んでいる。これがまた面白い。というか凄い。「刺青」や「秘密」の描写は驚くほどに流麗だ。粘っこくしつこいものもあるがそれにはしっかり必然性がある。これは確かにいろんなことを言ってみたくなるし、真似してみたくもなる。話の筋から言えば、「幇間」がとても良い。個人的な感懐からうっかり泣きそうになる。

実は「細雪」のようなものは一度も読んだことがない。折を見て読もうと思う。

一日

「今日は一日充実していたか」などと問うことはもはや錯乱以外のなにものも示さないのではあろうが、それでももしかしたら必要な振り返りかもしれない。自分のうちに基準が存在しないまま努力を続けるというのは苦行もいいところだ。どんな些細な事であっても成したことを指折り数えてから床に就いたほうがよく眠れるに違いない。

基準の達成とは要するに、今の覚束ない毎日の営みから何かひとつ逸脱してみせるということだと思う。煙草を吸わないでみる、違う駅で降りてみる、挨拶からさらに話しかけてみる……。安い啓発だと笑えてきたが、まあいい。

もしも明日、死んでしまうとしたらという恐ろしすぎる想像が、そういった行動を後押しするらしい。とてもまともなものにはなりそうにないが、どうなのだろう。しかし、思い切りの悪さが今のうだつのあがらなさにつながっているのだから、死はともかく、やってみせろというわけだ。そのうちに何かあればめっけもんである。

娑婆

何がとは言わないがようやく終わった。ただひたすらにつらかった。

担当の形だけの放任主義と私の間の悪さが見事に噛み合って、最後の最後までお互いを認めることなく終わった印象だ。準備をないがしろにした自分の責任が大きいが、本当に体を壊すかと思った。精神的におかしくなる人もいるということが腑に落ちた。

私の場合、働きながら何かをするということはよほどのことがない限り無理だと思った。特にこの手の職業では。ここのところ、帰ってきてパソコンを開くということすらままならなかった。いわんや、本など全く読めない。何かしらをしていても常に次の日がちらつく。

それにしても、しばらくやってみないうちに驚くほど社会適合能力が下がっていたことに驚いた。相手を前にしてどもるなんてしばらくぶりだった。社会的な立場が上の人間とのコミュニケーションが下手くそになってしまった。ワンセンテンスを言い切らないしゃべりがやはり原因だろう。拾ってくれる人間が多い環境では困らなかったが世間ではそうもいかないらしい。当たり前か。

挨拶、お礼、報告、連絡、相談……。

計画を立てる能力を身につけないといけないのだということは分かった。確かに無計画に生きすぎたきらいはある。どこかでそのしわ寄せがくるだろう。今からでも先のことを考えるか。それはもうしょうがない。

 

資料収集

発表やら何やらで、国会図書館まで資料を見に行くことが増えた。

閲覧までタイムラグがあるし、手続きを行わなければならない機会が普通の図書館よりも多いし、何より自宅からとても微妙な距離にあるために、そこまで利用してこなかった。

それが最近になって少し慣れてきた。普通の図書館でよくやる、目的とは全く関係のない本や資料を漁るということが国会図書館でもできるようになってきた。テレビ番組やネットのまとめなんかでもよく取り上げられるように、あそこには日本で刊行されたもの全般、つまりゲームやDVDなどもまた所蔵されている。

試しにアイマスを調べると、ゲームとCDはほぼヒットする。ニュータイプアニメージュのような雑誌もあるようなので、「これはアイマス論が書けるな」などといらないことを考えることもできる。ただ惜しむらくは、ライブのパンフレットが所蔵されていないことだ。ライブのパンフレットや円盤に付属するブックレットなどにはスタッフや演者の制作秘話が語られることが多く、資料価値は高い。類似の発言はラジオや一般公開のインタビュー記事などでも確認でき、部分的な抜粋は熱心なファンのブログなどを漁れば一応把握することができるとはいえ、実物から得るところは大きい。

同人誌やサブカルチャー関連の刊行物を採集保管する機関もぽつぽつとあるが、どれほどの所蔵があるのだろう。ちょっと興味が湧いてきた。

こういった、ともすればすぐに忘れ去られるようなものを集めて残すということがどれほど難しく、そして残っているとどれほどありがたいかということを最近切に感じている。

Pass away

ばあちゃんシスターズの一人が逝った。

うちの親父が幼い頃、よく世話になっていた。

意中の男性と出かけるための口実として幼い親父を頻繁に連れ出していた、という話は親族のなかでは鉄板のエピソードである。

それだけに、親父にも思うところがあるようでしんみりとしている。目に見えて悲しんでいるという様子ではないが、不思議と見ていられない。

ここ何年かは隣の区の総合病院に入院していた。東京に暮らす息子夫婦が面倒をみやすいようにということであった。

年を重ねるにつれ呆けが進行し、最期にはもうよくわからなくなってしまっていたようだ。

危篤の連絡が入ってからすぐ、二時間もしないで逝った。苦しまずに逝けたのであろうか。

そうであったことを願う。

教科書

諸々の準備のために高校で使われている国語総合の教科書を買った。自分たちが使っていたものと比べてみると、だいぶ面白くなっている気がする。こんなに色が多かったか?図版が多かったか?と驚いた。

もちろん、定番と言われるような作品も相変わらず載っている。「羅生門」とか「城の崎にて」なんかは課題の難しさには辟易としていたものの、わりと好きだった。文学なんて言葉も知らず、ろくすっぽ本など読まなかった自分にとっては原体験とも言えるのかもしれない。

今のものにはなんと、横光利一の「頭ならびに腹」も載っている。この作品は学部の頃、課題として扱い発表まで行った。いわゆる「新感覚派」の嚆矢となった作品で、とりわけ冒頭の「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」という表現は「新感覚派」の文学を体現しているとされる。

ところが、当時の自分にとってはこの表現のどこが「新感覚」なのか、皆目見当がつかなかった。文学史についての知識が全くと言っていいほどなかったのもあるが、ようやく本を読み出し、したり顔で「現代」の小説を語りはじめた自分には驚くべきところはなかったように感じたのである。困ったことにこの作品はその力のすべてを表現に集中しているような性質のもので、しかも、確かにこの部分が作中において最もキマっているところなのだ。どうしようもなくなって結局発表では勉強したばかりの批評理論を振りかざして強引に乗り切った。今読んでも手に余る。そういう意味で思い入れは深い。

パラパラとめくっていって目につくのは、短歌である。やはり「短歌」と銘打つだけあって、正岡子規の「くれなゐの~」からはじまっている。続けてみていると与謝野晶子石川啄木に続いて若山牧水の短歌が二首載っている。

「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」

「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」

個人的に若山牧水は好きな歌人だ。何が良いかというと、素朴なところだ。三十一文字という定型をもつ短歌に素朴などということがありうるかというと、おそらくそんなことはなく限りない選択の果てにそれぞれの文字が常にそこからはみ出していき、ぶれていくのだと思う。自分たちが読んだときの短歌は、詠まれたときのものの残像であって、あるいは遠目から見たモザイクであって、ふとした瞬間に違うものになってしまうものかもしれない。

牧水の短歌はとにかくエモい。酒飲みだったというのは有名な話だが、前掲の二首、特に一首目など絶対に酔っ払っていたに違いない。一応、「白鳥」と「空の青」「海のあを」との対比が鮮やかだというのが高校で教えることらしいが、「かなしからずや」のほうがヤバいだろう。ここには「白鳥」の孤独に自分の孤独を重ね合わせたようなエモさ、甘さが迸っている。もちろん遠い昔から詠み手の心情を散る花などの風物に仮託することは手法としてあって、それ自体珍しくもないのだが(「白鳥」は渡り鳥であって、牧水は旅人として「ただよふ」)、なんというか牧水はそれをマジでやってしまっている感じがするのだ。

また、二首目にもみられるように、牧水の歌の根幹にあたるのは「寂しさ」のようなものだ。人生への無常観や恋愛のロマンティシズムがしばしば表す途方もない大きさとは比べるまでもないみみっちさ、情けなさである。しかし、たぶんそれは大問題だったのだろう。これに対する瞬間の真剣さ。狂気じみているがわかる気もする。(「今日も旅ゆく」という末尾がどうもとってつけたようであって、楽観的な雰囲気もある。)まぁ、牧水の短歌を事細かにみているわけではないので、もっとしっかり見ていけばまた印象も変わるだろうが。

最後に、どうせ啄木も載せるならこの歌も載せて欲しかった。

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」

これはもうずるい。

理由

さっきまで気張りながら、「なんで文学フリマに毎年参加しておきながら、個人的な姿勢としてはそんなに乗り気ではないのか」というようなことを書いてたんだけど、うっかり操作を間違えて全部消えてしまったから、今度はラフな感じに書いていこうと思う。

端的に、おれはあの手のイベントがちょっとよくわからないし、もっと言えば、雰囲気が苦手。そもそも、個人的には本を作るってこととあのイベントに参加するっていうことにそこまでのつながりはないと思っている。あのイベントに出すためにっていう名目だけ借りている感じ。もちろん、開催規模や日程、来場者層なんかが、自分達の都合に適っているということもあるけど、それは別に絶対の条件じゃないし似たようなイベントがまたできたらそっちにいくかもしれない。

「自分たちの書いたものを多くの人に読んでもらいたい」ともそんなに思っていない(もちろん、読んでもらえたほうが絶対に良いし嬉しい)。本気でそう考えているなら、他のイベントや流通経路、メディアもあるわけだし、何もあそこで本を出す必要はないと思う。だから毎年あそこに参加するのは突き詰めて言えば、「たまたま」だと思う。

それじゃあ、なぜ本を作るのかというとこれはまた難しい。装丁や余白、ページの手触りといった身体性が云々と言うことはできるし、それは個人的には大いに肯くところがあるわけだけれど、始めたときはそんなことは微塵も考えていなかった。むしろ、それを作る過程しか考えていなかった。つまり、本を作るってことでみんなが集まってくれればいいな、書きたいことを書きたいままに書くことができればいいな、普段は踏ん切りがつかないやつでも書くことができたらいいなというように。当たり前っちゃ当たり前な話だ。だから、そうして出来上がるもののかたちが本だろうがデータだろうが構わないんだけども、それでも本を作ってしまっているのはたぶん直接会って渡しやすいからだと思う。感覚的なことだが、その場で話のタネになりやすいのは本の方だと思っている。受け渡しが面倒なものほどコミュニケーションの機会は増えるかなと短絡的に考えている。

だから、といっていいのかわからないが、基本的に作ったものは無料で頒布している。本が出来上がった段階でおれの目的はとりあえず達成されているので、そこから先は厚意の押し付けだ。「みんなで集まってわいわいやりながら作ったカレーがめっちゃうまかったし、まだあるから欲しい人に分けてあげるよ」的なノリでやっている(例がクソ下手だし、一緒にやってるやつらに申し訳ない)。

ここでようやくイベントの話に戻るが、同人誌即売会というようなイベントも雰囲気としてはそんなもんだと思っていた。商売なんか度外視で、持ち寄ったものを話のタネに、同好の士と交流するような場だと。もちろん、そういう雰囲気もまだかなり残っているとは思う。だがなんというか、かすかに商売と政治のにおいが漂っている気もしている。もっと言えば外と変わらん感じがする。「読んでもらうために売る」の「売る」部分に比重が置かれてきている気がするし、その方法がフリーマーケットの外のマーケットと変わらないようになってきた。交流も意見を交換する、交友の幅を広げるというよりはギルドをせっせと作っているような感じがする(もちろん、これらの感懐はあの広い会場の片隅からしか見ていないようなやつのものであって、大いに的外れかもしれない)。

まぁ、でも実際に行ってみたらたぶん楽しいんだと思う。全然知らない人のものを読むのは面白い。カレーにも各家庭の味がある。そして大抵、友達のうちのカレーは自分ちのものよりもうまい。