Lesson

読んだり、飲んだり

圧縮と展開

俳句や短歌がことさらに好きなわけではない。ただ定型ということに興味があった。それでいろいろ触れてみたこともある。

なぜ、17音あるいは31音という限られた形式のなかで表現を行うのか。表したいことがあるなら言葉を尽くせばいいと思ってしまう。当然、尽くしたところで尽くしきれないということはあるにせよ、なぜそれだけの音数に託すのか。

定型が作品を担保するということはあるだろう。何はともあれその形式に違反しない限り、それは作品と呼ばれうる。これはいまだに俳句や短歌が人気であることと無関係ではないはずだ。(新聞にも短歌のページがあり、専門雑誌も元気だ。海外でも句歌作が行われているらしい)こんな話をしていると桑原武夫の「第二芸術論」といったような古めかしくカビの生えた議論を思い出してしまうが、これはどうでもいい。

定型が言葉に外形を与えるといった側面は確かにある。しかし、ここで想起されるのは、言葉を優しく包みこむアフガンのようなものではなく、きりきりと絶えず万力のごとく食い込む拘束具のようなものである。

私が唯一そらんじることができる句がある。

松島や ああ松島や 松島や

松尾芭蕉が詠んだというこの句はその大胆なリフレインによって松島の壮大な美しさを表してやまないとされる(実際には芭蕉はこんな句を詠んではいないらしい)。しかし、単純にこうは思わないか、情報量があまりに少ないと。わたしたちに与えられたものは「松島」だけなのではないか。漏れ出るような「ああ」という嘆息が「松島」を余すことなく描写していると果たしていえるか。ここで「や」という切れ字の効果について云々することもできるかもしれない。石田波郷に次のような句がある。

霜柱 俳句は切字 響きけり

そう、確かに「響」くのだ。音として。「や」「かな」「けり」などといった表現がその実用性を完全に失い、心情表現として慣用化されたことによってこの「響き」は純粋に音となったのではないかと思う。もちろんこのような言葉が、私たちの古の記憶を呼び戻し、仄かな感傷を抱かせるといったこともあるだろう。音としての気持ちよさもある。しかし、もっとも重要な役割はやはり情報の、さらにいえば言葉の圧縮にあるのではないだろうか。

「松島や」の句を例に出すまでもなく、そもそも俳句は定型のなかで表現が圧縮されている。決定的な意味を結ぶことがない切れ字はその圧縮率を強める働きをするのではないか。

こうして圧縮された言葉は読み手(同時に詠み手)によって展開されるのを待つ。この点において、俳句や短歌をはじめとする超短詩は読み手に大きな負担を強いる。圧縮率が高ければ高いほど、その展開は大規模なものとなる必要がある。穂村弘が短歌を「爆弾」になぞらえた本があったが、この圧縮展開の動きを考えると確かにそういえるかもしれない。想像力あるいは精神を(経験などもあるかもしれない)動員して臨まなければこの「爆弾」は炸裂しない。「松島」を「松島」たらしめることができなければ、それは私のものではない。しかし、一度爆発が起こってしまえば、それは私のものとして離すことができないものになるのだろう。

夏雲がふと「朽ち果てよ」と耳もとで

この句をめぐって大いに揉めたのを覚えている。「夏雲」に引っかかり続けた。あのとき、この「雲」は私のなかにはなかったのだ。いまも恐らくない。まったく感性の欠如である。

R.I.P.

わからないといって読まずにいたものを、少しずつ読んではやめるといったことを繰り返してだいぶ経った。

読んだといえるのかどうか、見たということもあやしいかもしれない。

最初は作者を徹底的に排して、そんなものはいないというフィクションのなかで読もうと思った。なまじ書いた人を知っているから。

綺麗だと思ったと同時に不穏だった。救われない感じがした。周りの友人がこの作品集を褒めるとき、それに積極的な態度を見せなかったのは、単に天邪鬼だっただけではなくこの不穏さのためだったと思う。しかし、評価しないというのとは違う。底抜けに明るく、希望に満ちていなければならないなんて毛ほども思わない。

全編に漲る静謐さは眩しいくらいに恐ろしくはないか。

濡れたあさがおに重なるようにあらわれるかつての鹿。人の声のしない場所に生きている動物(逝くものとして全力を挙げて?)。近くの空と柔らかにみえる地面のあいだに急に投げ込まれる物騒な血肉。思い出は倒壊する日を建つ家に。

正直うまくいえない。これとは違った印象をもったものもあったと思う。どうすれば、というような感覚はいまもある。

今日という日にこれを言い出すのはずるいことかもしれない。でもやはり、本を開いたばかりの扉から続くものを無視できない(当たり前か)。

あれは、おれのものではなかったといえるのか、どうか。

 

記憶ですむならおぼえておく

必要なんてないとおもった

(「家に帰る人」)

 

酔い歌いさまようひとよ安らかに眠れ

Your name .

今になってようやく観に行った。映画館に行くことじたい久しぶりだったので、それなりに楽しみにしていたのだが、肩透かしをくった気分だ。

よくできてたんじゃないかとは思う。

ただ、絵面も含めて説明しすぎじゃないかとも思う。始まってすぐ、思わせぶりというかいかにも核心めいたことが、ナレーション(しかもユニゾン)で語られたときはどうしようかと思った。「今から奇跡が起こりますよ」というような予言を受けずとも、そもそも映画を観る側はそれを目的にして来るし、映画を観るってことじたいが奇跡的な体験ともいえるんじゃないか。知らんけど。

同じようにおばあちゃん(一葉)の組紐の話も素直が過ぎるように感じた。口噛み酒をお供えに行く途中で、おばあちゃんがいきなり中島みゆきの歌みたいなことを言い出したときにはちょっとがっかりした。あそこで語られた「結び」がつまりこの映画の骨子で、まさにその通りに作られている。わざわざ冒頭からずっと細かく錯時的な見せ方を織り交ぜてたのはさながら絡まった糸といったところなんでしょう。知らんけど。

さすがに絵そのものは綺麗で、いろいろ細かく描き込まれている。ただ綺麗一辺倒で飽きる。瀧君の行動範囲はなんであんなにキラキラしているのか。黄昏時が重要みたいだから仕方がないが(「誰そ彼」だって。どうするよ?)、東京の場面は夜の印象が薄い。あったっけ?

たくさん描き込まれた細部は、どれもしっかりとした意味に接続する。だから特に言うこともない。困る。隠れミッキー的な遊び方をするか、キャラ萌にはしるか。

一番がっかりしたのは、入れ替わりが水宮の巫女に代々伝わっていたっぽいことが明かされるところである。それまでこっちとしては、誠に勝手だが、目覚めたときになぜか泣いていたときのような、夢での出来事が感覚としてなんとなく身体に残っているということが時空間を超えたどこかの誰かとのつながりを示すのかもしれないというロマンを楽しんでいた。現実にしばしば起こるあの感覚が、誰かとつながっていることの証だとしたら、それはなんと夢があることだろうか。それはさながら海に手紙の入ったボトルを投げ入れるあのエモさに通じる。ところが、この映画において受け手(同時に投げ手)はもう決まっていた。古来よりその土地の神に仕える巫女だったのである。隕石に縁のあるこの地の神は、迫りくる彗星の危機を知らせるために代々の巫女に入れ替わりの力を授けるのだ。つまるところご託宣なのだ。そしてそれは彗星が落ちてくる直前、三葉の代でようやく実を結ぶ。

もはや「ノアの方舟」である。あったらいいな、夢があるなと思って観ていたものは結局、選ばれし者の特殊技能だったのである。(瀧君はそういった能力を持っておらず、純粋に選ばれた側なんだから、我々も巫女とつながるチャンスはあるとみるべきか)

もちろんこれは言いがかりだ。映画で起こったことが自分の身にも起こるなんてことはまずない。ほとんどの映画が選ばれし者の話なのも知っている。だが、ズルいなと思ってしまった。結局、そっちの話かと。自分に起こった一目惚れやデジャビュといったものに壮大な物語の可能性を贈ってくれるのではと思ってしまった。

きっと神を信じたり、感謝したりする心が自分には足りなかったのだろう。いまいちノリきれなかった理由がそこにもあると思う。

物怖じ

どんな文章であっても、口を出すのはなかなか怖い。そんなものがあるわけないと知ってはいても的外れになってしまうことをどうしても気にしてしまう。

だからできるだけ技術や論理に目を向けようとする。しかし、それは共通のコードが強く働いているときだけしか有効ではない。一見、一般的で確固たるもののようである技術や論理が実はそうではないだろうことくらい(言い過ぎかもしれない)わかっている。それらを見出す自分の主観がはっきりと存在することも。当然である。

そういったコードが見えづらい種類のものを語ることは自分にとってとても難しい。そして、その最たるものが詩だと思っている。仮初の一般性に身を隠すことが許されないものに直面したとき、そこには自分の感性が強く出てしまうのではないか。どれだけ理屈っぽく語ったところで、その理屈を支えるのは自分ひとりであって誰の威を借ることもできない。

自分の鈍麻した感性が披瀝されてしまう。抽象的な表現であればなんでも「詩的」と呼んでしまいかねないような、前衛的な美術作品を「よくわからない」と評し、しかもその「よくわからなさ」のためにありがたがるような、そんな感性が顔をのぞかせてしまうのではないか。それが怖い。こういった感性は今もなお自分のなかにあるだろう。対象物を様々な領域――わかったほうがよいこととそうでないこと――へと区別することでそれを堰き止めてきたのではなかったか。

読む力というのはその対象を自分に引き寄せる力のことだとも思っている。しかし、寄せる自分が頼りなければどうしたらよいのか。うまくできる人は本当にすごいと思う。自分はすぐにはそうなれないだろう。

今回はそれでもなんとか読んでみようと思う。練習としてというと聞こえが悪いが、いずれ続く第二、第三の詩集に向けて、今回はどうしようもなさを引きずりながら大事に読んでいこうと思う。そのために、とりあえず栞文は読まずにおく。たぶん彼らの感性に頼りたくなるから。ごめん。いずれきっと。

敗北宣言

3年目、やります。

うっかり認めてしまったら楽にもなったが、一方でプライドの置き場に困っている。大事の前の小事、高く跳ぶためには低く屈まなければといってみたところで、やはりうまくできなかったことに目がいく。

決定的な能力の不足。棚上げにはできない。ちゃんとやってるやつはちゃんとやってるんだ。他人と比べるなとか自分のペースでとか、それが重要なこともあるのは知ってはいても、この場合は違うだろうと思う。

焦りも後悔もある。それでもなおと開き直るのもどうだろうか。自分の周りの状況を引き合いに出して自罰的に振舞うことはいくらでもできるが、どうにも落ち着かない。

やはり敗けたのだなと思う。相変わらず馬鹿な認識だが、これが一番しっくりくる。翻って、そもそも今まで勝てたことなどあったのだろうか。慰めにもならない。

自分を許せという言葉をかけてくれた友人には感謝しているが、無理そうだ。しかし、そういう言葉に甘えられる瞬間はちょくちょく欲しい。どうしようもない。

来年はできるだけ動く年にしたい。負荷をかける必要があると思う。留まり方にも良し悪しがある。留まって失敗するのはもういい。

最後だけ妙にポジティブだ。がっかりする。

散歩

Instagramの使い方がやっぱりよくわからなかったのでこっちにあげる。

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譜面台を持参し川に向かってトランペットを練習している女の子が何よりも素晴らしかったが流石に撮るわけにもいかず、そばの階段に座って煙草をふかしながら、音階をだんだんと上げたり下げたりする基礎練習を延々と聞いていた。