Lesson

読んだり、飲んだり

V型12気筒

いちばん好きなフランス映画はたぶん「トランスポーター」だと思う。

開始まもなくの静かな様子から銀行強盗を逃がす一連のシークエンスはまさに圧巻だと思う。ステイサムの融通の利かなそうなプロフェッショナル感とそれをはっきりと明示する三つのルール。カーチェイスには追いつかれるかどうかというハラハラ感よりも、どうやって置き去りにするのかというワクワク感がある。BMWの心地よいエンジン音や細かく頻繁なミッション操作がまた楽しい。

キャラクターはどれもチャーミングである。自らの運ぶ荷物が人であることに気づくと彼女にオランジーナをストローで飲ませるステイサム。そのすぐあとに騙され脱走されるステイサム。それを捕まえて車に戻ると警察官がおり、やむなく彼らをぶちのめすステイサム。終盤にある油まみれのアクションシーンも面白いし、敵を倒すために使った服をあとで回収するのも良い。

そして何よりヒロイン役のスー・チーがべらぼうに可愛い。マドレーヌ焼いたとことか可愛い。キャーキャーとよく喚くところもそんなに気にならない(そりゃ隣にステイサムだし)。警部も味がある。絶え間ないフレンチ・ジョークは個人的に好み。とりわけ、プルーストを引き合いに出して、「あいつは良い刑事になっただろう」っていうところが好き。

残念なのは物語の後半になるにつれ車の存在感がほとんどなくなること。一応、バスのなかで殴り合ったり、トラックの運転席で揉み合ったりという場面はあるものの、カーチェイス的な場面はほとんどない。

序盤にあったプロとしてのダークさみたいなものが薄れて普通のヒーローになっていくのもちょっと拍子抜け。でもそんなところも好き。わかりやすいハッピーエンドも良いもんだと思う。

DOCUMENTARY

「DOCUMENTARY of AKB48」の第一作を観た。監督があの「リリイ・シュシュのすべて」の岩井俊二なんだそうだ。だからどうということもないが、ドキュメンタリー映画ってそれ専門の監督がいるイメージがあったので意外だ。

どうも作中の時間は2009年ごろのようだ。私でも知っているようなメンバーが続々とインタビューに登場する。いまはもうグループに存在しないメンバーがとうとうと自らの思いを語る姿を見るのは、不謹慎ではあるが、葬式で故人を偲ぶあの感覚に近い。

ちらちらと光が差す画面、物から人へのピント(ぼやけ)の移動、抑制的な音楽。画面の見た目は独特な雰囲気がある(というか、どこで撮ってるんだってところもある。グラビア撮影に帯同?)。しかし、話者のコメントに合わせてそれと関連するようなバックステージのカットを挟むなど、観やすいドキュメンタリーになっていると思う。

なんといっても、アイドルのキャラが濃い。(渡辺麻友の「わたしこれ以外の仕事できない」「天職だと思ってる?」「はい……天職って何ですか?」の流れは良かった)これはすごい。入れ込むファンが出るのもわかる。異常な環境に適応しきった結果、自分の考えがえらくはっきりしている。ともすれば哲学じみてる。それをすごく自然な態度で淡々と話すから圧倒される。狂気に近いものを感じる。現時点の彼女らを知っているから余計に。

ただ、ひたすらにインタビューが続いていくので欠片も興味がなければこの作品はきついかもしれない。

ああ、だれか売れないかな。冗談でもいいからこういうのやってみたい。

 

物は試し

試しにdTVに加入してみた。どうにもストリーミングが不安定な瞬間があったものの、これだけいろいろ観られるというのはやはりうれしい。

とりあえず「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」を観た。

こういう娯楽大作が私は好きだ。静かで示唆に富んだ映画を観ることもあるし、そういったもので好きなものもある。だが、性に合うのはこちらである。普段、読んでいるようなものとは違うテンションでいたいのかもしれない。とはいえ、娯楽性があろうがなかろうが、映画の魅力が感じられればどちらでもよく、そしてそれは本質的にどちらにでも含まれていると思っている。

さて、本作の魅力はやはりハイテクなガジェットの数々とトム・クルーズのアクションだろう。両方とも絶妙にアホらしさがあって非常に良かった。公開当時の予告にもあった、高層ビルをよじ登るためのグローブとか合理性があるんだかないんだか分からなくて(たぶんない)最高にクールだった("Blue is glue. Red is dead."とか )。相手の虹彩の動きに反応して自動で動くプロジェクターとか、磁力を利用した浮遊装置とか、ありえそうだなとは思っても、どう使うかというところまでは考えつかないようなものをああいう風に見せてくれるのは面白かった。小さい頃に見ていた戦隊もの番組の合間に入るおもちゃのCMを思い出させるワクワク感があった(実際に手に入れてみたら恐ろしくちゃっちいという予感があるところも懐かしい)。

トム・クルーズのアクションはとにかく頑張ってる感が出ていた。役としてのイーサン・ハントが必死こいてるというよりは、トム・クルーズが必死という感じ。最終戦のアクションはハリウッド的なお約束として敵味方ともに粘るわけだが、このときの足場を飛び移るたびに体を打ちつける泥臭さがよかった(そういえばこの作品では、やたらとイーサンが物にぶつかる)。走るシーンも随所にあるが、このときのトム・クルーズの一生懸命な真顔が面白い。そして走り方。ロボットじみているというか、正しすぎるフォームというか、速いのはわかるがどこか滑稽なさまだった。

トーリーはそこまででもない。というか基本的には同じことの繰り返しである。計画→潜入→奪取の流れが場所と状況を変えて続く。ハッキングがやたらと便利なのはこの手の話ではよくあることだと思う。イーサンの妻をめぐるあれこれは正直いらなかったかもしれないというくらいの薄さ(過去作から観ているとそんなことないのか?)。

がっかりしたことといえばヒロイン?に魅力があまりないということだろう。すごくデキる女風ではあるものの作品全体ではヘマのほうが目立つ。特にターゲットに対して色仕掛けをかけるといったときの色気のなさがすごい。戦闘シーンでやたらと強く描かれるのも相まって、なんかこうエージェント感というか、手練手管を尽くして相手を出し抜くといった様子がまるで見られない。あんまりよくない作品のアンジェリーナ・ジョリーみたい。

ローグネイションもいずれ入るだろうから、観てみようと思う。

圧縮と展開

俳句や短歌がことさらに好きなわけではない。ただ定型ということに興味があった。それでいろいろ触れてみたこともある。

なぜ、17音あるいは31音という限られた形式のなかで表現を行うのか。表したいことがあるなら言葉を尽くせばいいと思ってしまう。当然、尽くしたところで尽くしきれないということはあるにせよ、なぜそれだけの音数に託すのか。

定型が作品を担保するということはあるだろう。何はともあれその形式に違反しない限り、それは作品と呼ばれうる。これはいまだに俳句や短歌が人気であることと無関係ではないはずだ。(新聞にも短歌のページがあり、専門雑誌も元気だ。海外でも句歌作が行われているらしい)こんな話をしていると桑原武夫の「第二芸術論」といったような古めかしくカビの生えた議論を思い出してしまうが、これはどうでもいい。

定型が言葉に外形を与えるといった側面は確かにある。しかし、ここで想起されるのは、言葉を優しく包みこむアフガンのようなものではなく、きりきりと絶えず万力のごとく食い込む拘束具のようなものである。

私が唯一そらんじることができる句がある。

松島や ああ松島や 松島や

松尾芭蕉が詠んだというこの句はその大胆なリフレインによって松島の壮大な美しさを表してやまないとされる(実際には芭蕉はこんな句を詠んではいないらしい)。しかし、単純にこうは思わないか、情報量があまりに少ないと。わたしたちに与えられたものは「松島」だけなのではないか。漏れ出るような「ああ」という嘆息が「松島」を余すことなく描写していると果たしていえるか。ここで「や」という切れ字の効果について云々することもできるかもしれない。石田波郷に次のような句がある。

霜柱 俳句は切字 響きけり

そう、確かに「響」くのだ。音として。「や」「かな」「けり」などといった表現がその実用性を完全に失い、心情表現として慣用化されたことによってこの「響き」は純粋に音となったのではないかと思う。もちろんこのような言葉が、私たちの古の記憶を呼び戻し、仄かな感傷を抱かせるといったこともあるだろう。音としての気持ちよさもある。しかし、もっとも重要な役割はやはり情報の、さらにいえば言葉の圧縮にあるのではないだろうか。

「松島や」の句を例に出すまでもなく、そもそも俳句は定型のなかで表現が圧縮されている。決定的な意味を結ぶことがない切れ字はその圧縮率を強める働きをするのではないか。

こうして圧縮された言葉は読み手(同時に詠み手)によって展開されるのを待つ。この点において、俳句や短歌をはじめとする超短詩は読み手に大きな負担を強いる。圧縮率が高ければ高いほど、その展開は大規模なものとなる必要がある。穂村弘が短歌を「爆弾」になぞらえた本があったが、この圧縮展開の動きを考えると確かにそういえるかもしれない。想像力あるいは精神を(経験などもあるかもしれない)動員して臨まなければこの「爆弾」は炸裂しない。「松島」を「松島」たらしめることができなければ、それは私のものではない。しかし、一度爆発が起こってしまえば、それは私のものとして離すことができないものになるのだろう。

夏雲がふと「朽ち果てよ」と耳もとで

この句をめぐって大いに揉めたのを覚えている。「夏雲」に引っかかり続けた。あのとき、この「雲」は私のなかにはなかったのだ。いまも恐らくない。まったく感性の欠如である。

R.I.P.

わからないといって読まずにいたものを、少しずつ読んではやめるといったことを繰り返してだいぶ経った。

読んだといえるのかどうか、見たということもあやしいかもしれない。

最初は作者を徹底的に排して、そんなものはいないというフィクションのなかで読もうと思った。なまじ書いた人を知っているから。

綺麗だと思ったと同時に不穏だった。救われない感じがした。周りの友人がこの作品集を褒めるとき、それに積極的な態度を見せなかったのは、単に天邪鬼だっただけではなくこの不穏さのためだったと思う。しかし、評価しないというのとは違う。底抜けに明るく、希望に満ちていなければならないなんて毛ほども思わない。

全編に漲る静謐さは眩しいくらいに恐ろしくはないか。

濡れたあさがおに重なるようにあらわれるかつての鹿。人の声のしない場所に生きている動物(逝くものとして全力を挙げて?)。近くの空と柔らかにみえる地面のあいだに急に投げ込まれる物騒な血肉。思い出は倒壊する日を建つ家に。

正直うまくいえない。これとは違った印象をもったものもあったと思う。どうすれば、というような感覚はいまもある。

今日という日にこれを言い出すのはずるいことかもしれない。でもやはり、本を開いたばかりの扉から続くものを無視できない(当たり前か)。

あれは、おれのものではなかったといえるのか、どうか。

 

記憶ですむならおぼえておく

必要なんてないとおもった

(「家に帰る人」)

 

酔い歌いさまようひとよ安らかに眠れ

Your name .

今になってようやく観に行った。映画館に行くことじたい久しぶりだったので、それなりに楽しみにしていたのだが、肩透かしをくった気分だ。

よくできてたんじゃないかとは思う。

ただ、絵面も含めて説明しすぎじゃないかとも思う。始まってすぐ、思わせぶりというかいかにも核心めいたことが、ナレーション(しかもユニゾン)で語られたときはどうしようかと思った。「今から奇跡が起こりますよ」というような予言を受けずとも、そもそも映画を観る側はそれを目的にして来るし、映画を観るってことじたいが奇跡的な体験ともいえるんじゃないか。知らんけど。

同じようにおばあちゃん(一葉)の組紐の話も素直が過ぎるように感じた。口噛み酒をお供えに行く途中で、おばあちゃんがいきなり中島みゆきの歌みたいなことを言い出したときにはちょっとがっかりした。あそこで語られた「結び」がつまりこの映画の骨子で、まさにその通りに作られている。わざわざ冒頭からずっと細かく錯時的な見せ方を織り交ぜてたのはさながら絡まった糸といったところなんでしょう。知らんけど。

さすがに絵そのものは綺麗で、いろいろ細かく描き込まれている。ただ綺麗一辺倒で飽きる。瀧君の行動範囲はなんであんなにキラキラしているのか。黄昏時が重要みたいだから仕方がないが(「誰そ彼」だって。どうするよ?)、東京の場面は夜の印象が薄い。あったっけ?

たくさん描き込まれた細部は、どれもしっかりとした意味に接続する。だから特に言うこともない。困る。隠れミッキー的な遊び方をするか、キャラ萌にはしるか。

一番がっかりしたのは、入れ替わりが水宮の巫女に代々伝わっていたっぽいことが明かされるところである。それまでこっちとしては、誠に勝手だが、目覚めたときになぜか泣いていたときのような、夢での出来事が感覚としてなんとなく身体に残っているということが時空間を超えたどこかの誰かとのつながりを示すのかもしれないというロマンを楽しんでいた。現実にしばしば起こるあの感覚が、誰かとつながっていることの証だとしたら、それはなんと夢があることだろうか。それはさながら海に手紙の入ったボトルを投げ入れるあのエモさに通じる。ところが、この映画において受け手(同時に投げ手)はもう決まっていた。古来よりその土地の神に仕える巫女だったのである。隕石に縁のあるこの地の神は、迫りくる彗星の危機を知らせるために代々の巫女に入れ替わりの力を授けるのだ。つまるところご託宣なのだ。そしてそれは彗星が落ちてくる直前、三葉の代でようやく実を結ぶ。

もはや「ノアの方舟」である。あったらいいな、夢があるなと思って観ていたものは結局、選ばれし者の特殊技能だったのである。(瀧君はそういった能力を持っておらず、純粋に選ばれた側なんだから、我々も巫女とつながるチャンスはあるとみるべきか)

もちろんこれは言いがかりだ。映画で起こったことが自分の身にも起こるなんてことはまずない。ほとんどの映画が選ばれし者の話なのも知っている。だが、ズルいなと思ってしまった。結局、そっちの話かと。自分に起こった一目惚れやデジャビュといったものに壮大な物語の可能性を贈ってくれるのではと思ってしまった。

きっと神を信じたり、感謝したりする心が自分には足りなかったのだろう。いまいちノリきれなかった理由がそこにもあると思う。

物怖じ

どんな文章であっても、口を出すのはなかなか怖い。そんなものがあるわけないと知ってはいても的外れになってしまうことをどうしても気にしてしまう。

だからできるだけ技術や論理に目を向けようとする。しかし、それは共通のコードが強く働いているときだけしか有効ではない。一見、一般的で確固たるもののようである技術や論理が実はそうではないだろうことくらい(言い過ぎかもしれない)わかっている。それらを見出す自分の主観がはっきりと存在することも。当然である。

そういったコードが見えづらい種類のものを語ることは自分にとってとても難しい。そして、その最たるものが詩だと思っている。仮初の一般性に身を隠すことが許されないものに直面したとき、そこには自分の感性が強く出てしまうのではないか。どれだけ理屈っぽく語ったところで、その理屈を支えるのは自分ひとりであって誰の威を借ることもできない。

自分の鈍麻した感性が披瀝されてしまう。抽象的な表現であればなんでも「詩的」と呼んでしまいかねないような、前衛的な美術作品を「よくわからない」と評し、しかもその「よくわからなさ」のためにありがたがるような、そんな感性が顔をのぞかせてしまうのではないか。それが怖い。こういった感性は今もなお自分のなかにあるだろう。対象物を様々な領域――わかったほうがよいこととそうでないこと――へと区別することでそれを堰き止めてきたのではなかったか。

読む力というのはその対象を自分に引き寄せる力のことだとも思っている。しかし、寄せる自分が頼りなければどうしたらよいのか。うまくできる人は本当にすごいと思う。自分はすぐにはそうなれないだろう。

今回はそれでもなんとか読んでみようと思う。練習としてというと聞こえが悪いが、いずれ続く第二、第三の詩集に向けて、今回はどうしようもなさを引きずりながら大事に読んでいこうと思う。そのために、とりあえず栞文は読まずにおく。たぶん彼らの感性に頼りたくなるから。ごめん。いずれきっと。