Lesson

読んだり、飲んだり

ます

シャニマスが始まってからしばらく経つ。

ゲームとしてはまだまだな部分が多いとも思うがそれなりに楽しい。

オープンから人を離さないためのゲーム内通貨のばら撒きがまだ行われているのか、ガシャがとても回しやすい。事前登録の特典と合わせると、無課金でも現状ほとんどのことができる。逆に言えば、それくらいゲーム的に発展途上だと思う。

やはりソシャゲの宿命として、イベントの出来と継続性次第でこれからどうなるかわからない。

すでに二つのイベントが行われたが、これらは正直、イベントの体をなしていなかった。通常のゲームプレイのなかで、指定された条件を満たすことで得られるポイントと引き換えにイベント報酬を手に入れるというもので、作業感が強くあまり面白みはない。指定される条件=ミッションも、複数回プレイせよ、公式が発表しているユニットのメンバーでプレイせよ、といったものでひねりがない。思うにこのイベントは、イベントという名のチュートリアルなのだろう。確かにゲーム性そのものは繰り返しプレイすることで面白みを見出すような作りになっていると思うし、キャラクターを知るためには何よりもプレイしてみるのが早道だ。ゲーム紹介とキャラクター紹介とをかねて実際に何度もプレイするように促すためのイベントだったのかもしれない。

とはいえ、まずいかもと思った要素としては、そのミッションのなかに限定ガシャから排出されるキャラクターを使用するものがあったことがあげられる。二回目のイベントでは緩和されていたが、一回目のほうでは、このガシャから得られるキャラのミッションを行わない場合、得られるイベントポイントの総計が交換できる最上級の報酬とほとんど変わらないようであった。では、それ以外のミッションは通常のプレイで充分に達成可能な平易なものだったかというとそうでもなかった。少なくとも、何の対策もなしにプレイして達成することはかなり難しかったのではないか。ゲームの性質を早々に理解していたプレイヤーもそれなりの試行回数をこなさなければならなかったのではないかと思う。一応、ガシャ産キャラのミッションについては救済措置としてのエクスキューズがついていたが、他がこの難易度では微妙なところである。

頑張れば届くというところにハードルが設置できないとライトユーザーが逃げていく。このバランスがいまのところ、ふわふわしているのかもしれない。

とはいえ、この手のバランスはある程度ゲームが運営されていくうちに変動するだろうとも思うので、そんなに気にしてはいない。もちろん今回のようなイベント形式でずっといくとも思っていない。

そんなことより、二度目のイベントの際にむざむざガシャを引いたことによって手に入れたキャラが思いのほか気になっている。結局、そんなにピンと来ていなくても、引いてしまうと愛着がわく。

今やどのコンテンツにも一人はいるだろう方言キャラ。でも、ピンポイントで長崎ってあんまり聞いたことないな。

 

youtu.be

また

泥沼などという言葉では済まない。

軍事的介入が国際情勢上、妙手となる場合が現代においてまだあるのか?

 

アメリカの2度目のシリア攻撃は大規模になる | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

CNN.co.jp : 米英仏がシリアの化学兵器施設に攻撃 ロ軍への攻撃回避 - (1/2)

【シリア攻撃】メイ英首相声明「新たな化学兵器使用阻止」「政権転覆が目的ではない」 - 産経ニュース

 

記憶

楽しかったり、緊張していたり、とにかくしこたま飲むと記憶が飛ぶ。
たいてい渇ききった喉がぴったりとはりついたような不快感で目を覚まし(それが自分の布団とは限らない)、それでも初めは後悔よりも無事に目覚めたことによる安堵のほうが大きくて、一通り朝のルーティンを済ましたあと、朝飯が食えない状態を引きずりながら、そういや昨日、どうやって帰ったっけな、と不安になる。携帯だの財布だのを確認して色々推測してみても、決定的な記憶は戻ってこない。

こういうことが重なるたびに、記憶がボロボロになっちまったと思っていたが(実際、この記憶はずっと還ってこない)、もしかしたら思い出すということをしていないだけなんじゃないかと思うようになってきた。恥ずかしながら、恐ろしくみみっちく、せせこましい性格な以上、物覚えは悪くない、というか細かいところほどよく覚えているはずなのだ。

最近、絶えず何かを思い出す小説を読んでいて、こんなにポンポン思い出せるってすごいな、と単純に感心していた。実際にそういうことがあったかということではなくて、思い出すという身振りがポンポン現われるのがすごいのだ。こういったものを読んでいると自分もいろいろ思い出すようになる。意外な効能だ。

そうするとやはり細々としたことを覚えている。
焼き肉の前日にゲーゲーやったとき、サークルの先輩が好きだと言っていたバーボンであるメーカーズマークのレッドキャップを麦茶みたいに飲みながら流した曲は「セックス・オン・ザ・ビーチ」で、テキーラ・ブンブン!とアホみたいに騒ぎ倒していたさなか、これまた近所に住んでいたサークルの先輩を呼びつけて、別に騒ぐのも飲むのもそれほど好きじゃないだろう映画好きの先輩は結局ほったらかしにされてパソコンで別の動画を見ていたから、これは本当に悪いことをしたが、一度トイレで吐いたおれに友達が買ってきてくれたのはアロエヨーグルトだったし、おじやにはブナシメジが入っていた。
千葉の駐車場で眠りこけたときは、早稲田の飲み屋からカラオケに移動して、そこには普段来ないような女の子もいて、結構タイプだったから内心ウキウキしながらもそれを表に出すのはいかがなものかというその取り繕いがそもそも露骨だった。コンビニでみんなが持ち込むための酒を買い、それは確かビールとアルコール度数が少しだけ高い缶チューハイばかりだったが、男が絶えたことがないと聞いたことのある愛嬌がウリの女の子が「飲むんだから、ウォッカでしょ」と小瓶を買い物かごに投げ入れ、それが回りまわっておれのメロンソーダに混ぜられてしまい、イケメンが歌う「1/3の純情な感情」にテキトーな合いの手を入れていたころにはすっかり気が大きくなって、バンプとか山崎まさよしとか、たいして盛り上がらない曲を歌った。

これらの出来事がだいたい5、6年前のことだから、たぶん他にももっと覚えている。
別に飲んだときのことじゃなくても覚えている。
子供のころのことも覚えているだろう。
ポンポン思い出したい。

基準

なにも今回が初めてというわけではないけれど、作ろうとしてみて気づくということはある。

読まれようと考えるとき、どうやって読もうとしていたか、何を基準に選んでいたかを思い起こす。

まず、名前。

あっ、この作家の新作か、気になるな。といった具合。このとき、立ち読みなんかはあまりしない。冒頭の数行に目を通すことはするかもしれないが、そこでいまいちでも、気になっていた作家のものならとりあえず手に入れて読む。

次に表紙やタイトル。

自分好みのイラストやデザインが載っているものは手に取る。手持ちに余裕があればそのまま買うかもしれない。名も知らぬ作家の作品であっても、タイトルや煽りがよかったら中を見てみる。文庫なら裏表紙のあらすじも見るだろう。

さらに企画。

面白そうな組み合わせの対談や、インタビュー、レビューなんかはやっぱり気になる。作家の読書遍歴について書いているサイトがあったと思うが、ああいうのも見てしまう。特集も、今こそ漱石!みたいなざっくりとした大きなくくりほど、どこかしら自分の琴線に触れて読んでしまう。

こう考えていくと、作品の良さというのは手に取るときのきっかけにはならない。

しかし、大前提であり最重要事項なのは作品が良いことである。さんざん言ってきたが、やっぱり面白いものを読みたい。誰であれそうだと思う。

小賢しいことをあれこれ考えるが、結論としては面白さに基準を置くことを第一とするほかないのだろうと思う。何をやるにしても。

それから、できないこと、例えば音に聞こえた執筆陣を揃えて豪華な誌面を作るとか、プロモーションを大々的にうって集客するとか、そういったことを考えるより、我々だからこそできることをポジティブに考えていく必要がある。何かしらあるはず。

既存の物真似は場合を選ばないと、単に粗悪な模造品になりかねない。現状を鑑みれば、模倣の対象自体もそこまで頭抜けているわけではなさそうだと思っている。こと、形の面では。

げらげら笑いながら考えるくらいがたぶんちょうどいい。やりたいことが半歩ずれて悪ノリに差し掛かるくらいを目指したい。

ついさっき、先日のお祝い帰りに自分が送ったラインに気づいてゾッとした。

あまりにもひどい。

そもそも、お祝いだってのに遅れて行っては鯨飲馬食。連れの彼女に気を使わせ、帰りしなに知らないやつのケツをぶったたく。一人になりゃ意味不明なダルがらみ。

恐ろしいことに記憶も曖昧だ。左ひざに大きな青たんまでできていた。

酔っぱらったときの自制がまるきり利かなくなっている。笑える範疇をとうに超えた。だいたい今までだって、たまたま周りが笑ってくれるほど優しかっただけで、迷惑や心配はかけたおしだった。

てめえでゲーゲーやって野垂れ死ぬならまだしも、よそ様に手を上げるようになったらいよいよお仕舞いだ。

当分、飲むのはやめようと思う。一生って言いきれないのが情けない。

飲もうとしたらぶん殴ってくれ。