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筋肉はどこまで健全か

友人たちの間で筋トレが蔓延している。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」というのを地でいこうというわけなのだと思う。運動によって身体を鍛え、そうすることによって生活のリズムも整う。それはきっと良いことだろう。しかし、一方で筋トレは中毒であり、信仰であると思う。

筋トレを始める理由は様々あるだろう。打ち込んでいるスポーツのために。プロポーションの改善・維持のために。運動不足の解消のために。どのような理由であれ、始めるときには、筋トレは目的のための手段である。だが、これはやすやすと反転する。特に、目的が漠然としたまま、ある種のストレス発散として行うものに散見される。

やればやるほど、知識を多く得るほど、効率は上がり成果が目に見えるものになる。器具を用い、栄養をコントロールし、生活を律する。持てなかったものが持てるようになり、思い通りに身体が動く。その快感はかなりのものだと思う。ストレスなど吹っ飛んでしまうに違いない。しかし、恐ろしいことに、やらなければ筋肉は萎むのである。一度身についたはずのものがゆっくりと失われていくのだ。耐え難い恐怖である。

そうでなくても、筋トレはその仕組みのために、常に激化の一途をたどる。筋肉を維持するには、それが身についたときの負荷をかけ続けなければならないし、増大させようと思えば、更なる負荷をかけなければならない。やればやるほど、更にやらねばならないことになる。

筋トレを、普段うだつの上がらない生活を続ける自分が失った自信を回復するための慰めとするのは危険だ。常に成果が得られるものにのめり込むあまり、それが生活の中心になってしまうこともある。趣味や運動の範疇を超え、戒律に近いものになりかねない。筋肉に自閉してしまえば、そのような精神はきっと健全とは呼べなくなるだろう。