Lesson

読んだり、飲んだり

教科書

諸々の準備のために高校で使われている国語総合の教科書を買った。自分たちが使っていたものと比べてみると、だいぶ面白くなっている気がする。こんなに色が多かったか?図版が多かったか?と驚いた。

もちろん、定番と言われるような作品も相変わらず載っている。「羅生門」とか「城の崎にて」なんかは課題の難しさには辟易としていたものの、わりと好きだった。文学なんて言葉も知らず、ろくすっぽ本など読まなかった自分にとっては原体験とも言えるのかもしれない。

今のものにはなんと、横光利一の「頭ならびに腹」も載っている。この作品は学部の頃、課題として扱い発表まで行った。いわゆる「新感覚派」の嚆矢となった作品で、とりわけ冒頭の「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」という表現は「新感覚派」の文学を体現しているとされる。

ところが、当時の自分にとってはこの表現のどこが「新感覚」なのか、皆目見当がつかなかった。文学史についての知識が全くと言っていいほどなかったのもあるが、ようやく本を読み出し、したり顔で「現代」の小説を語りはじめた自分には驚くべきところはなかったように感じたのである。困ったことにこの作品はその力のすべてを表現に集中しているような性質のもので、しかも、確かにこの部分が作中において最もキマっているところなのだ。どうしようもなくなって結局発表では勉強したばかりの批評理論を振りかざして強引に乗り切った。今読んでも手に余る。そういう意味で思い入れは深い。

パラパラとめくっていって目につくのは、短歌である。やはり「短歌」と銘打つだけあって、正岡子規の「くれなゐの~」からはじまっている。続けてみていると与謝野晶子石川啄木に続いて若山牧水の短歌が二首載っている。

「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」

「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」

個人的に若山牧水は好きな歌人だ。何が良いかというと、素朴なところだ。三十一文字という定型をもつ短歌に素朴などということがありうるかというと、おそらくそんなことはなく限りない選択の果てにそれぞれの文字が常にそこからはみ出していき、ぶれていくのだと思う。自分たちが読んだときの短歌は、詠まれたときのものの残像であって、あるいは遠目から見たモザイクであって、ふとした瞬間に違うものになってしまうものかもしれない。

牧水の短歌はとにかくエモい。酒飲みだったというのは有名な話だが、前掲の二首、特に一首目など絶対に酔っ払っていたに違いない。一応、「白鳥」と「空の青」「海のあを」との対比が鮮やかだというのが高校で教えることらしいが、「かなしからずや」のほうがヤバいだろう。ここには「白鳥」の孤独に自分の孤独を重ね合わせたようなエモさ、甘さが迸っている。もちろん遠い昔から詠み手の心情を散る花などの風物に仮託することは手法としてあって、それ自体珍しくもないのだが(「白鳥」は渡り鳥であって、牧水は旅人として「ただよふ」)、なんというか牧水はそれをマジでやってしまっている感じがするのだ。

また、二首目にもみられるように、牧水の歌の根幹にあたるのは「寂しさ」のようなものだ。人生への無常観や恋愛のロマンティシズムがしばしば表す途方もない大きさとは比べるまでもないみみっちさ、情けなさである。しかし、たぶんそれは大問題だったのだろう。これに対する瞬間の真剣さ。狂気じみているがわかる気もする。(「今日も旅ゆく」という末尾がどうもとってつけたようであって、楽観的な雰囲気もある。)まぁ、牧水の短歌を事細かにみているわけではないので、もっとしっかり見ていけばまた印象も変わるだろうが。

最後に、どうせ啄木も載せるならこの歌も載せて欲しかった。

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」

これはもうずるい。