Lesson

読んだり、飲んだり

物怖じ

どんな文章であっても、口を出すのはなかなか怖い。そんなものがあるわけないと知ってはいても的外れになってしまうことをどうしても気にしてしまう。

だからできるだけ技術や論理に目を向けようとする。しかし、それは共通のコードが強く働いているときだけしか有効ではない。一見、一般的で確固たるもののようである技術や論理が実はそうではないだろうことくらい(言い過ぎかもしれない)わかっている。それらを見出す自分の主観がはっきりと存在することも。当然である。

そういったコードが見えづらい種類のものを語ることは自分にとってとても難しい。そして、その最たるものが詩だと思っている。仮初の一般性に身を隠すことが許されないものに直面したとき、そこには自分の感性が強く出てしまうのではないか。どれだけ理屈っぽく語ったところで、その理屈を支えるのは自分ひとりであって誰の威を借ることもできない。

自分の鈍麻した感性が披瀝されてしまう。抽象的な表現であればなんでも「詩的」と呼んでしまいかねないような、前衛的な美術作品を「よくわからない」と評し、しかもその「よくわからなさ」のためにありがたがるような、そんな感性が顔をのぞかせてしまうのではないか。それが怖い。こういった感性は今もなお自分のなかにあるだろう。対象物を様々な領域――わかったほうがよいこととそうでないこと――へと区別することでそれを堰き止めてきたのではなかったか。

読む力というのはその対象を自分に引き寄せる力のことだとも思っている。しかし、寄せる自分が頼りなければどうしたらよいのか。うまくできる人は本当にすごいと思う。自分はすぐにはそうなれないだろう。

今回はそれでもなんとか読んでみようと思う。練習としてというと聞こえが悪いが、いずれ続く第二、第三の詩集に向けて、今回はどうしようもなさを引きずりながら大事に読んでいこうと思う。そのために、とりあえず栞文は読まずにおく。たぶん彼らの感性に頼りたくなるから。ごめん。いずれきっと。