Lesson

読んだり、飲んだり

理由

さっきまで気張りながら、「なんで文学フリマに毎年参加しておきながら、個人的な姿勢としてはそんなに乗り気ではないのか」というようなことを書いてたんだけど、うっかり操作を間違えて全部消えてしまったから、今度はラフな感じに書いていこうと思う。

端的に、おれはあの手のイベントがちょっとよくわからないし、もっと言えば、雰囲気が苦手。そもそも、個人的には本を作るってこととあのイベントに参加するっていうことにそこまでのつながりはないと思っている。あのイベントに出すためにっていう名目だけ借りている感じ。もちろん、開催規模や日程、来場者層なんかが、自分達の都合に適っているということもあるけど、それは別に絶対の条件じゃないし似たようなイベントがまたできたらそっちにいくかもしれない。

「自分たちの書いたものを多くの人に読んでもらいたい」ともそんなに思っていない(もちろん、読んでもらえたほうが絶対に良いし嬉しい)。本気でそう考えているなら、他のイベントや流通経路、メディアもあるわけだし、何もあそこで本を出す必要はないと思う。だから毎年あそこに参加するのは突き詰めて言えば、「たまたま」だと思う。

それじゃあ、なぜ本を作るのかというとこれはまた難しい。装丁や余白、ページの手触りといった身体性が云々と言うことはできるし、それは個人的には大いに肯くところがあるわけだけれど、始めたときはそんなことは微塵も考えていなかった。むしろ、それを作る過程しか考えていなかった。つまり、本を作るってことでみんなが集まってくれればいいな、書きたいことを書きたいままに書くことができればいいな、普段は踏ん切りがつかないやつでも書くことができたらいいなというように。当たり前っちゃ当たり前な話だ。だから、そうして出来上がるもののかたちが本だろうがデータだろうが構わないんだけども、それでも本を作ってしまっているのはたぶん直接会って渡しやすいからだと思う。感覚的なことだが、その場で話のタネになりやすいのは本の方だと思っている。受け渡しが面倒なものほどコミュニケーションの機会は増えるかなと短絡的に考えている。

だから、といっていいのかわからないが、基本的に作ったものは無料で頒布している。本が出来上がった段階でおれの目的はとりあえず達成されているので、そこから先は厚意の押し付けだ。「みんなで集まってわいわいやりながら作ったカレーがめっちゃうまかったし、まだあるから欲しい人に分けてあげるよ」的なノリでやっている(例がクソ下手だし、一緒にやってるやつらに申し訳ない)。

ここでようやくイベントの話に戻るが、同人誌即売会というようなイベントも雰囲気としてはそんなもんだと思っていた。商売なんか度外視で、持ち寄ったものを話のタネに、同好の士と交流するような場だと。もちろん、そういう雰囲気もまだかなり残っているとは思う。だがなんというか、かすかに商売と政治のにおいが漂っている気もしている。もっと言えば外と変わらん感じがする。「読んでもらうために売る」の「売る」部分に比重が置かれてきている気がするし、その方法がフリーマーケットの外のマーケットと変わらないようになってきた。交流も意見を交換する、交友の幅を広げるというよりはギルドをせっせと作っているような感じがする(もちろん、これらの感懐はあの広い会場の片隅からしか見ていないようなやつのものであって、大いに的外れかもしれない)。

まぁ、でも実際に行ってみたらたぶん楽しいんだと思う。全然知らない人のものを読むのは面白い。カレーにも各家庭の味がある。そして大抵、友達のうちのカレーは自分ちのものよりもうまい。