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送り火

芥川賞:高橋弘希さん「送り火」に 北条さん受賞逃す - 毎日新聞

今期の芥川賞高橋弘希の「送り火」に決まったらしい。
この作品は『文学界』に載ったその時に読んでいた。候補に挙がった段階で慌てて読むことが常な自分にとってこれは本当に珍しい。該当の『文学界』の表紙には、「川沿いの黒い森で繰り広げられる少年たちの残酷な儀式――俊英の渾身作160枚」とあった。ここに書かれている要素で私の興味を惹かないものは一つもない。

普段の生活空間と隣りあいながらも決定的な破綻を孕む暗い場所。陰鬱な因習とそれがもたらす、不条理かつ無意味で突発的な暴力。考えなしの一瞬と釣り合いの取れない惨憺たる結果。祭りのなかで等価値となっていく喜劇と悲劇。殴られたら痛いのだという乾いた実感が味わえるのではないかと思って手に取った。

この期待が的外れだったのかもしれない。正直、あまり面白いとは思えなかった。
冒頭、時系列としては作品終盤と繋がる場面から始まる。いささか道具立てめいた「地方」の「習わし」が語られたあと、「おら、島流し、なにぼうっとしてら。」と乱暴な言い回しで「作業服の男」が主人公を急き立てる。夏の炎天と乾いた畑、何を祀っているのか、もはや忘れかけられている祠。不穏な雰囲気は十分にある。面白いものが始まりそうである。

だが、ここだけだった。正確にいえば、この場面に続く「サーカス」から作品末までだ。もちろん、この作品はそこが描けていることが前提としてある。だからそこまでの部分は言ってみれば「溜め」であり、「助走」である。物語のダイナミズムなど、どんな作品にもつきまとうもので、取り立てて何かを言うものでもないのかもしれないが、とにかくこの不穏さを「溜め」る部分が平板である。書き割りめいていて、機械的に感じる。

「「地方」の土着信仰に端を発する暗い因習」を現代で大っぴらにやるからには何かあるのだろうと思えば特にない。定型でやるために田舎を借りてきただけに見える。

では、それを取り巻く人物関係に何かあるのかと思えば、「父の都合で都会からやってきた、人の顔色をしっかりと窺うことのできる聡い少年」と「過去に不可解な暴力事件を起こしたという、凶暴ながらも無垢な感じの少年と、その被害者でありながら、曖昧な笑顔で虐げられ続ける少年」が中心となって話が進む。少年の父母や友人たちに至ってはもはや語るべきものがない。
(冒頭で繰り広げられる父子の会話はこうだ。

「お父さんはもう、職場に新しい友達はできた?」
「大人になるとね、友達になるとか、ならないとか、そういう関係じゃなくなってくるんだよ。」
「それって寂しい?」

何かの露悪的なパロディなのだろうか?)

では、話の筋で読ませる作品ではなく、言語表現そのものを見るべき作品なのだろうか?しかし、都会からやってきた少年「歩」に寄り添った視点がこれを妨げる。確かな不穏さをたたえる描写と素朴な少年の感慨がないまぜになった文章は言いようもなく歯痒い。それによって何かが表現されているとは考えづらいが、どうか。
とにかく冒頭で提示されていたものを待ち続け、待っている間に割とどうでもよくなる作品のように思う。

芥川賞:高橋弘希さん 直木賞は島本理生さん - 毎日新聞

タイムスリップ感とあるが、単に往年の舞台立てを活用しただけでは?

見るべきところがないわけではないと思う。ただ、「溺れるナイフ」とか「八つ墓村」とかのほうが好きかもしれない。