Lesson

読んだり、飲んだり

明日なんだって

つくづく文句ばっかりだと、自分が嫌になるが、とはいえ文学フリマのやり方はどうなんだろうと思う。

近年明らかにイベント規模の拡大路線をとっている。それは別にいい。多数を呼び込むことは経営的にもコンセプト的にも矛盾しない。地方都市での開催も基本的には良い試みだと思う。

ただ、どう大きくしていくのかが見えてこない。

昨今の文化流通状況に危機感を覚えてはじまったイベントだったはずだ。多様性が消え、「売れる」ものが何よりも優先されている(ように見える)現状で、「売れない」ものを「売れる」ように、あるいは売れずとも別の在り方(それは共同体におけるコミュニケーションと似たかたちかもしれない)で続くようにという、いってしまえば文化保全的な試みから企画されたのだと思っている。文学が生き延びるには「場」が必要という大塚英志の提言はおそらく正しかった。

しかし、いまはどのような「場」として機能しているのか。

作家同士の、あるいは限りなく作家に近い読者とのコミュニケーション形成の場にはかろうじてなっているかもしれない。オフ会めいてはいても。

多様性も一見確保されている。書店では見かけることのまずない、それぞれに独自の関心を貫いた歪な本であふれている。本のかたちでないものもたくさん。

だが、真に歪なものは姿を消していっている。もっといえば出来の悪いものが。

出来が悪いものが淘汰されていくことは自然なことだと思うかもしれない。さまざまな技術が進歩したいまとなっては出来良く作ることは素人にだってできるのだから。実際、当日の会場を歩くと気づくはずだ。どれもこれも書店に置かれているような立派な本であることに。

当然、会場の水準にないものは手に取られにくくなっていく。隣のテーブルには箔押しの素敵な本が積まれているというのに、わざわざ藁半紙を受け取る人間はよっぽどの変わり者だ。

それぞれの出店者は自らの価値を高め、打ち出している。凝った装丁、奇抜なテーマ、わかりやすいジャンル分け、有名人の起用。価値を高められなかった藁半紙からいなくなる。

ここには素朴な市場原理が働いている。

文学フリマは、アマチュアによる大きな書店を開きたかったのか?

いまや、小説のうち、かつては運営から「純文学」に振り分けられていた箇所は閑古鳥が啼いている。いつも入口に近い場所を与えられておきながらそうなっているのは不徳の致すところというほかないが、あえて言い訳をするならば、そりゃ無名の素人が書いた「純文学」より、無名の美人が書いたしょーもないフォトエッセイのほうが売れるよ。知りもしないやつの小説に1000円払うなら、ちょっと行けば青木淳悟とかが書いてる音楽誌とか、豊永利行小松未可子がラジオの企画で作った本とか、有名批評家の弟子がやってるやつとかあんだから、そっち行くっしょ。そっちを目当てに来た人間が、帰りにそこに寄っていって面白がってくれると運営は思っているんだろうけど、果たしてどうか。

中身の良し悪しではかると言ったって、見本誌をずっと読み込むわけにもいかないし、よくて開いたページの数行で判断する感じになることが多い。価値の判断がすぐにはできないのであれば、見えている価値を優先してしまうのは仕方がない。だいたい書店での自分たちのふるまいがそうではないか。本棚にずらっと並んだ背表紙に刻まれたタイトルと著者名を見て手に取り、ぱらぱらとめくるだけでじっくり読んだりはせずなんとなくレジに持っていく。ぱらぱらめくっただけにもかかわらず恐ろしく素晴らしいものもあるが、それはほとんど奇跡に近い。

だから、これからはさらに見映えが良くて、わかりやすくて、ためになるものが増えていくだろう。ネットをはじめほかの環境で名を成したクリエイターのご尊顔を拝見する場になるかもしれない。小説も開いてすぐにわかるようにショートショートが中心になって、中長編には練ったあらすじがつく。いずれ価格競争が始まり、いかにクオリティを保ったまま価格を抑えるかで出店者は頭を悩ませ、それに対して価格を抑えないことで自らのブランド化を図る勢力が現れ……。あまり阿呆な預言をするべきではない。

「〈文学〉と信じるものであればなんでも」というリベラルで放任主義な姿勢は格好よく映るけれども、結局のところやっぱり順調な市場原理に対してどのような位置をとるのか。不干渉を貫くのか、介入するのか。いつどのような施策で。見えない。

こんなこと売れないやつのやっかみで、実際は中身が抜群なもん作ったら売れんのかね。そうかもしれないね。

このままコミケになるのかな。