鼎の軽重を問う
このあいだの群像の評論賞の鼎談、もっかいちゃんと読んだよ。
こういうので自分の考えを補強しちゃうとあんまりよくないんだろうな。明らかに大きく、シンプルに話してるし。三人とも普通のこと言ってるだけだし。諦めに近い諭しだった。それをふまえてなお、やっぱり大体同じようなこと言ってるわ、おれ。アカデミズムから脱落しちゃったもんだから、余計に贔屓してんのかなとも思うけど。
そういや、今月号の群像では諏訪部さんがアカデミズムの文脈で現代作家の読まれづらさについて書いてたね。ちょっとお小言っぽかったけど、まぁ偉い人がちゃんと言わんといかんよね。「研究の蛸壺化」だってさ。しょうがない部分もあるよ、おまんま食いっぱぐれちゃうわけにはいかないんだし。
教わる立場のころからずっと言われてたね、読まなくなったと。近現代やるっていうのはいいけど、だからって古典を知らんっていうのは違うと。これはマジでそうだと思ったから、専門が確定してからも古典を読んでた。本当にさわりだけだけど。漢籍とかさ。そもそも文学やるって思った段階で領域性なんかないようなもんだと思ってたし。日本文学専攻だから、海外文学はまったくみたいなの意味わかんないし、脳科学とか音楽とかアニメとか引っ張ってきて文章書いたっていいじゃん、みたいな。
それぞれを適切に扱うだけの論理構成力とか知識を蓄えてからにすべきっていう教える側の意図は当然だと思うから、なんで好き勝手やらせねえんだクソが、みたいな気持ちは一切ない。好き勝手できるだけの能力がないのが悪い。ちゃんとした評価を、なんなら大目に見てもらってたと思う。
ただやっぱり専門の細分化は問題なんだろうね。院とかいうスーパー学問好き好きインテリ軍団のなかでさえ、懇親会とかでよく、
「ご専門は?」
「藤枝静男です」
「えーっと……」
「あ、昭和の、戦後の作家で、『近代文学』の……」
「あー、はい、戦後……」
「ええ……。そちらは」
「江見水陰を」
「あー、紅葉一門の……。あの普段はどんな小説読まれるんですか。私、最近友だちに滝口悠生のものを勧められて、」
「すみません、あんまり最近のものを読んでいなくて」
みたいなやり取りあったしね。あのときは江見水陰に反応できずに申し訳なかった。これの批評家バージョンもある。もちろん反対に、知らねえことねえのかコイツ、みたいな人もいっぱいいるし、おれのほうがダメなパターンもやっぱり多かった。
また話がそれた気がする。
まぁ、諏訪部さんが文章の後半で語っている研究における主流の推移はやっぱりどこでも起こってるし、共通認識なんだなと。結果として先祖返り的な作家研究が今後、出てくる、あるいは必要であるというビジョンも。若手も含めてみんなが思ってることを偉い人があらためて言うのは意義があることだと思うし、ありがたい。領域として自閉せずにいけたらよりいいけど。
最後にいちばん効いたパンチラインを。ちょっと長いけど。
例えば特定の文化や時代におけるイデオロギーをまず調べ、作品がそれにどう従属しているか、あるいはそれをどう転覆しているかを示せば、それだけで「論文」ができあがるという次第である。
近年「ポストクリティシズム」といったスタンスが(例えばリタ・フェルスキーなどの論客によって)唱道されるようになったのは、こうした予定調和的な「つまらない論文」が長らく量産されてきたことへの批判としても理解できるだろう。ただし付言しておけば、アカデミズムの進歩は「つまらない論文」の集積があってこそ可能であり、学問分野の成熟は「つまらない論文」がコンスタントに産出されているかどうかで判断されるともいえるはずだ。極言すれば、自分は「つまらない論文」など絶対に書くまいと思う人はもはや「研究者」であることをやめてしまっているとさえ思う。
※下線は引用者による。
紅桜いいなあ。ソウルフル。
レゲエ聞こうかなと思う。