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Lesson

読んだり、飲んだり

外出

体調不良とともに精神的な不調からも快復したもののどこか浮ついている。

恐ろしく本が読めなかったので、ぽつぽつと出かけた。

まずは友人が関わったという英語劇の舞台へ行った。演目はライオンキング。うまく選んだものだと思う。この演目に演技力はそれほど問われない。直線的でぶれることのないキャラクターはどれだけ過剰に演じても違和感を覚えることは少ない。勇敢なものはより勇敢に、冷酷なものはより冷酷にやればいい。むしろ今回問われるのは身のこなしや歌唱の部分だと思う。この点においてはなかなかうまくやっていた。工夫もあった。ただやはり練度や規模の部分で、かの有名な劇団四季には数段劣る。ひどい言い方かもしれないが、それはやる前から見えていたはずなので、そことは違ったひねりがあるものだと期待していたが予想以上に影響を受けていたようで個人的には残念だった。ただこの感想は「英語」という要素を大きく無視している。英語の言い回しや、響き、そもそも英語という言語を選択したという態度といったなかに見るべきところがあったかもしれない。

それから『ワイルド・スピード アイスブレイク』を観に行った。これはもうすごい。話なんかないというのを地でいっている。目的地までの移動シーンなどもちろんなく、なんでそうなったのかという因果もところどころ不明瞭だが、とにかくアホな画ですべてをもっていく。もはやポルノに近い。冒頭のキューバの場面は多幸感しかない。あの場面だけで観てよかったと思う。作中にまんべんなくあるブライアン(ポール・ウォーカー)へのリスペクトが泣ける。赤ん坊の名前が伏せられた時点で落ちが読めるのにやっぱり感動してしまう。仕事が済んだあとの打ち上げシーンはどの映画であっても好き。

さらにブリューゲルの「バベルの塔」が東京都美術館に来たらしいので見に行った。展覧会自体は思っていたほどではなかった。目玉であるボスとブリューゲルのほかはあまりなじみのない作品が多く、気に入るものも少なかった。イタリアルネサンスの影響を受けたフランドル地方の画家の特徴なのか浅学にしてわからないが、あの赤緑青の重々しい色合い、全体にてろてろとした光沢感、執拗な細部が織りなすいびつな荘厳さは個人的に好ましかった。個人的な発見としては、どうも自分は聖書のエピソードに範をとった絵が好きなようだ。多く展示されていた聖人カタリナの姿が印象的だった。物語が感じられるのが良いのだろうか。題や作家の名は忘れたが、召使に不義を迫るも断られ続け、ついにはその召使にあらぬ嫌疑をかけて追放する権力者の妻を描いた絵は非常に愉快だった。

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初来日だというこのボスの絵も大変よかった。貧乏行商が娼館に未練がましい視線を送るこの絵の情けなさ、説教くさくなさが心地いい。ほかにもソドムとゴモラの市を風景画のように描いたものにも思うところがあった。というか、その方法ってやっぱりどこでもやるやついるよねという共感。肝心の「バベルの塔」は当然よかった。思っていたよりもずっと小さい絵だったが、恐ろしく偏執的で狂気に近い。マジでバベルの塔を建てかねない勢い。展覧会のパンフレットでもグッズでもボスやブリューゲルの奇想天外なモンスターが推されていたが、彼らのユーモアはそういうところではなく、夥しさとかしつこさ、度の過ぎた鮮明さなんかにあるんじゃないかと思うので、切り分けて一つのキャラにするのはなんか違う気がする。

この展覧会の帰りに雨に降られたので、雨宿りもかねて国立科学博物館フタバスズキリュウや動植物の標本を観て帰った。

Another Day Of Sun

やっと「ラ・ラ・ランド」を観に行った。

アナと雪の女王」を観たことで、自分にはミュージカル映画が向いていないと思っていたが、今作は意外に楽しかった。というのも話は単純で、この作品では歌や踊りがストーリーから分離しているからだろう。話があって歌や踊りがある、ということではなく、歌や踊りののために話がある。出来の良いミュージッククリップをいくつか観たといったところなのかもしれない。

時代設定がどうとか話のつじつまがどうとかいっても始まらないタイプの映画だとは思う。キャラクターに関しても主役の二人以外は特に見るところもない。書き割りめいている。

画面にあふれる色味やオールドスクールな風景はやっぱりそれだけで評価できる。これだけの映画だと言われても、肝心のそれが良いのだからもうそれでいいと思う。歌も踊りも良かった。とりわけ冒頭、ハイウェイ上でのミュージカルは最高だった。多幸感があった(トラックの荷台で楽しそうにパーカッションを叩く大柄の男!)。思わず上映中に足や手でリズムをとってしまうこともあったが、周りにそういう観客はおらず何だか寂しかった。

問題は前半と後半とで雰囲気が大きく変わってしまったことである。前半の明るさに満ちたミュージカルシーンは後半になるにつれなりをひそめる。もちろん、話の展開上そうなるのは当然なのだが、話の粗さやしょうもなさから、どうしてもノリきれない。さらに、静かで落ち着いた曲が増える一方で踊りは減ってしまう。もっと踊ってほしかった。

最後の場面。つまり、あったかもしれない時間を思い出の曲に託し、それをまさにあったこととして映像に表すあの一連のシークエンス。映画的には技巧があまりにも先行していて、ともすればくどい演出だったかもしれない。だが、私は好きだ。なんというか、音楽がやりたくなる。音楽があるいは託されるものとしてあるというすごさをイメージとしてみせてくれたように思う。実際、誰もがああいう感覚を味わったことがあるんじゃないか。ふとした一音に時間も空間も飛び越えた、夢想とも追想ともつかない万感の意をおぼえることが。

できうることならハッピーエンドで終わってほしかった。そうなることでこの作品がより平凡なものになったとしても。

ライアン・ゴズリングはやっぱりカッコよかった。スーツが似合う。ロサンゼルスに行ってみたくなったし、パーティーにも一度くらいは行ってみたいと思った。

V型12気筒

いちばん好きなフランス映画はたぶん「トランスポーター」だと思う。

開始まもなくの静かな様子から銀行強盗を逃がす一連のシークエンスはまさに圧巻だと思う。ステイサムの融通の利かなそうなプロフェッショナル感とそれをはっきりと明示する三つのルール。カーチェイスには追いつかれるかどうかというハラハラ感よりも、どうやって置き去りにするのかというワクワク感がある。BMWの心地よいエンジン音や細かく頻繁なミッション操作がまた楽しい。

キャラクターはどれもチャーミングである。自らの運ぶ荷物が人であることに気づくと彼女にオランジーナをストローで飲ませるステイサム。そのすぐあとに騙され脱走されるステイサム。それを捕まえて車に戻ると警察官がおり、やむなく彼らをぶちのめすステイサム。終盤にある油まみれのアクションシーンも面白いし、敵を倒すために使った服をあとで回収するのも良い。

そして何よりヒロイン役のスー・チーがべらぼうに可愛い。マドレーヌ焼いたとことか可愛い。キャーキャーとよく喚くところもそんなに気にならない(そりゃ隣にステイサムだし)。警部も味がある。絶え間ないフレンチ・ジョークは個人的に好み。とりわけ、プルーストを引き合いに出して、「あいつは良い刑事になっただろう」っていうところが好き。

残念なのは物語の後半になるにつれ車の存在感がほとんどなくなること。一応、バスのなかで殴り合ったり、トラックの運転席で揉み合ったりという場面はあるものの、カーチェイス的な場面はほとんどない。

序盤にあったプロとしてのダークさみたいなものが薄れて普通のヒーローになっていくのもちょっと拍子抜け。でもそんなところも好き。わかりやすいハッピーエンドも良いもんだと思う。

DOCUMENTARY

「DOCUMENTARY of AKB48」の第一作を観た。監督があの「リリイ・シュシュのすべて」の岩井俊二なんだそうだ。だからどうということもないが、ドキュメンタリー映画ってそれ専門の監督がいるイメージがあったので意外だ。

どうも作中の時間は2009年ごろのようだ。私でも知っているようなメンバーが続々とインタビューに登場する。いまはもうグループに存在しないメンバーがとうとうと自らの思いを語る姿を見るのは、不謹慎ではあるが、葬式で故人を偲ぶあの感覚に近い。

ちらちらと光が差す画面、物から人へのピント(ぼやけ)の移動、抑制的な音楽。画面の見た目は独特な雰囲気がある(というか、どこで撮ってるんだってところもある。グラビア撮影に帯同?)。しかし、話者のコメントに合わせてそれと関連するようなバックステージのカットを挟むなど、観やすいドキュメンタリーになっていると思う。

なんといっても、アイドルのキャラが濃い。(渡辺麻友の「わたしこれ以外の仕事できない」「天職だと思ってる?」「はい……天職って何ですか?」の流れは良かった)これはすごい。入れ込むファンが出るのもわかる。異常な環境に適応しきった結果、自分の考えがえらくはっきりしている。ともすれば哲学じみてる。それをすごく自然な態度で淡々と話すから圧倒される。狂気に近いものを感じる。現時点の彼女らを知っているから余計に。

ただ、ひたすらにインタビューが続いていくので欠片も興味がなければこの作品はきついかもしれない。

ああ、だれか売れないかな。冗談でもいいからこういうのやってみたい。

 

物は試し

試しにdTVに加入してみた。どうにもストリーミングが不安定な瞬間があったものの、これだけいろいろ観られるというのはやはりうれしい。

とりあえず「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」を観た。

こういう娯楽大作が私は好きだ。静かで示唆に富んだ映画を観ることもあるし、そういったもので好きなものもある。だが、性に合うのはこちらである。普段、読んでいるようなものとは違うテンションでいたいのかもしれない。とはいえ、娯楽性があろうがなかろうが、映画の魅力が感じられればどちらでもよく、そしてそれは本質的にどちらにでも含まれていると思っている。

さて、本作の魅力はやはりハイテクなガジェットの数々とトム・クルーズのアクションだろう。両方とも絶妙にアホらしさがあって非常に良かった。公開当時の予告にもあった、高層ビルをよじ登るためのグローブとか合理性があるんだかないんだか分からなくて(たぶんない)最高にクールだった("Blue is glue. Red is dead."とか )。相手の虹彩の動きに反応して自動で動くプロジェクターとか、磁力を利用した浮遊装置とか、ありえそうだなとは思っても、どう使うかというところまでは考えつかないようなものをああいう風に見せてくれるのは面白かった。小さい頃に見ていた戦隊もの番組の合間に入るおもちゃのCMを思い出させるワクワク感があった(実際に手に入れてみたら恐ろしくちゃっちいという予感があるところも懐かしい)。

トム・クルーズのアクションはとにかく頑張ってる感が出ていた。役としてのイーサン・ハントが必死こいてるというよりは、トム・クルーズが必死という感じ。最終戦のアクションはハリウッド的なお約束として敵味方ともに粘るわけだが、このときの足場を飛び移るたびに体を打ちつける泥臭さがよかった(そういえばこの作品では、やたらとイーサンが物にぶつかる)。走るシーンも随所にあるが、このときのトム・クルーズの一生懸命な真顔が面白い。そして走り方。ロボットじみているというか、正しすぎるフォームというか、速いのはわかるがどこか滑稽なさまだった。

トーリーはそこまででもない。というか基本的には同じことの繰り返しである。計画→潜入→奪取の流れが場所と状況を変えて続く。ハッキングがやたらと便利なのはこの手の話ではよくあることだと思う。イーサンの妻をめぐるあれこれは正直いらなかったかもしれないというくらいの薄さ(過去作から観ているとそんなことないのか?)。

がっかりしたことといえばヒロイン?に魅力があまりないということだろう。すごくデキる女風ではあるものの作品全体ではヘマのほうが目立つ。特にターゲットに対して色仕掛けをかけるといったときの色気のなさがすごい。戦闘シーンでやたらと強く描かれるのも相まって、なんかこうエージェント感というか、手練手管を尽くして相手を出し抜くといった様子がまるで見られない。あんまりよくない作品のアンジェリーナ・ジョリーみたい。

ローグネイションもいずれ入るだろうから、観てみようと思う。

圧縮と展開

俳句や短歌がことさらに好きなわけではない。ただ定型ということに興味があった。それでいろいろ触れてみたこともある。

なぜ、17音あるいは31音という限られた形式のなかで表現を行うのか。表したいことがあるなら言葉を尽くせばいいと思ってしまう。当然、尽くしたところで尽くしきれないということはあるにせよ、なぜそれだけの音数に託すのか。

定型が作品を担保するということはあるだろう。何はともあれその形式に違反しない限り、それは作品と呼ばれうる。これはいまだに俳句や短歌が人気であることと無関係ではないはずだ。(新聞にも短歌のページがあり、専門雑誌も元気だ。海外でも句歌作が行われているらしい)こんな話をしていると桑原武夫の「第二芸術論」といったような古めかしくカビの生えた議論を思い出してしまうが、これはどうでもいい。

定型が言葉に外形を与えるといった側面は確かにある。しかし、ここで想起されるのは、言葉を優しく包みこむアフガンのようなものではなく、きりきりと絶えず万力のごとく食い込む拘束具のようなものである。

私が唯一そらんじることができる句がある。

松島や ああ松島や 松島や

松尾芭蕉が詠んだというこの句はその大胆なリフレインによって松島の壮大な美しさを表してやまないとされる(実際には芭蕉はこんな句を詠んではいないらしい)。しかし、単純にこうは思わないか、情報量があまりに少ないと。わたしたちに与えられたものは「松島」だけなのではないか。漏れ出るような「ああ」という嘆息が「松島」を余すことなく描写していると果たしていえるか。ここで「や」という切れ字の効果について云々することもできるかもしれない。石田波郷に次のような句がある。

霜柱 俳句は切字 響きけり

そう、確かに「響」くのだ。音として。「や」「かな」「けり」などといった表現がその実用性を完全に失い、心情表現として慣用化されたことによってこの「響き」は純粋に音となったのではないかと思う。もちろんこのような言葉が、私たちの古の記憶を呼び戻し、仄かな感傷を抱かせるといったこともあるだろう。音としての気持ちよさもある。しかし、もっとも重要な役割はやはり情報の、さらにいえば言葉の圧縮にあるのではないだろうか。

「松島や」の句を例に出すまでもなく、そもそも俳句は定型のなかで表現が圧縮されている。決定的な意味を結ぶことがない切れ字はその圧縮率を強める働きをするのではないか。

こうして圧縮された言葉は読み手(同時に詠み手)によって展開されるのを待つ。この点において、俳句や短歌をはじめとする超短詩は読み手に大きな負担を強いる。圧縮率が高ければ高いほど、その展開は大規模なものとなる必要がある。穂村弘が短歌を「爆弾」になぞらえた本があったが、この圧縮展開の動きを考えると確かにそういえるかもしれない。想像力あるいは精神を(経験などもあるかもしれない)動員して臨まなければこの「爆弾」は炸裂しない。「松島」を「松島」たらしめることができなければ、それは私のものではない。しかし、一度爆発が起こってしまえば、それは私のものとして離すことができないものになるのだろう。

夏雲がふと「朽ち果てよ」と耳もとで

この句をめぐって大いに揉めたのを覚えている。「夏雲」に引っかかり続けた。あのとき、この「雲」は私のなかにはなかったのだ。いまも恐らくない。まったく感性の欠如である。

R.I.P.

わからないといって読まずにいたものを、少しずつ読んではやめるといったことを繰り返してだいぶ経った。

読んだといえるのかどうか、見たということもあやしいかもしれない。

最初は作者を徹底的に排して、そんなものはいないというフィクションのなかで読もうと思った。なまじ書いた人を知っているから。

綺麗だと思ったと同時に不穏だった。救われない感じがした。周りの友人がこの作品集を褒めるとき、それに積極的な態度を見せなかったのは、単に天邪鬼だっただけではなくこの不穏さのためだったと思う。しかし、評価しないというのとは違う。底抜けに明るく、希望に満ちていなければならないなんて毛ほども思わない。

全編に漲る静謐さは眩しいくらいに恐ろしくはないか。

濡れたあさがおに重なるようにあらわれるかつての鹿。人の声のしない場所に生きている動物(逝くものとして全力を挙げて?)。近くの空と柔らかにみえる地面のあいだに急に投げ込まれる物騒な血肉。思い出は倒壊する日を建つ家に。

正直うまくいえない。これとは違った印象をもったものもあったと思う。どうすれば、というような感覚はいまもある。

今日という日にこれを言い出すのはずるいことかもしれない。でもやはり、本を開いたばかりの扉から続くものを無視できない(当たり前か)。

あれは、おれのものではなかったといえるのか、どうか。

 

記憶ですむならおぼえておく

必要なんてないとおもった

(「家に帰る人」)

 

酔い歌いさまようひとよ安らかに眠れ