Lesson

読んだり、飲んだり

Something to eat

鬱々とした気分を晴らすためにものを食べるということはよくあることだ。もちろん、食事という行為が性的な欲望と容易に結びつくということは誰しもが知るところである。ただ、そんなことを考えながらものを食うことはない。

気晴らしのための食事には二通りの手段がある。ひとつは贅沢なものを少しだけ食べること。そしてもうひとつが、安っぽいものを大量に食べることである。どちらがどうということはない。経済的な状況と、そのときの気分によってどちらを採用するかが決まる。

いまの気分としては後者である。そろそろ初鰹の季節だ。十分贅沢かもしれないが、これを多少乱暴に、たたきにして食いたい。できあいのものではなく、ごろっとした鰹の柵を焼き目がはっきりとつくくらい、少し焦げすぎたかと思うくらいに炙って食べたい。もともと締まった身を氷水で更に締め、2センチほどに分厚く切り、しょうが、玉ねぎをこれでもかと散らして食いたい。淡麗な飲み口の日本酒でも用意できれば言うことなしである。

じゃがいもなんかもいい。薄い黄色が溢れるほどのじゃがいもを鍋で蒸して、いろんなものとあわせて食ってみたい。塩やバターはもちろん、塩辛、ケチャップ、マヨネーズ、明太子などなど。大きく頬張り、口の中でまごつくじゃがいもを冷えたビールで一気に流し込みたい。

酒がなければダメなのかというとそうでもないのだが(ペパロニピザにコーラなんかはとても良い)、いまの気分はこうである。

Witness me !

アカデミー賞受賞の余波から近所の映画館でリバイバル上映が決まったようなので、「マッドマックス 怒りのデスロード」を観に行ってきた。公開時には観ることができていなかったので非常にラッキーだった。

3D・IMAX上映で観た。大きなスクリーンと身体にずしりとくる音響がここまで合う映画も少ないだろう。とにかく楽しかった。体験と呼ぶのに相応しかったと思う。

話としてはとてもシンプルで、敵に追われながら行って帰るだけである。もちろん、その合間にはそれぞれの登場人物の思惑や、関係が結ばれる過程が描かれる。ここも楽しい。というのも、登場人物たちがほとんど説明的なセリフを吐かない分、画面のそこかしこに観るべきものが現れるからだ。それをどう観るかという余地がしっかりとあるために二度三度と観たくなる。

アクションもすごい。轟音・爆発にまみれたカーチェイス、肉弾戦に銃撃戦、VFX。山盛りである。飛んでは散っていく派手なスタントの嵐に思わず笑ってしまうほどだ。個人的にはマックスとフュリオサが出会う場面の鎖を使った格闘戦がお気に入りである。この映画のアクションはとにかく過剰だ。殴るときはしつこく何度も殴る、爆弾を投げるときは何個も投げる、車がやられれば一回転する。これが絶え間なく続くのだから、否が応でもテンションは上がってしまう。

世界観や、ストーリーライン、人物設定がしっかりとしているためにこの映画を考える方策はいくらでもある。例えばベタなところで、これはマックスをはじめとした登場人物たちが再生していく物語であるなどとわかったようなことを言うこともできるし、フュリオサや花嫁たちに注目してフェミニズム的にみていくこともできるかもしれない。今回は全編の勢いを存分に楽しんでしまったので、こういった考えは浮かばなかったが。

イモータン・ジョーら敵のボスたちの死に様がことごとくあっけないのが、現状では多少不満な点である。あくまで、それまでの派手なアクションと比べての相対的な印象ではあるが。

R15ということだったらしいが、たいしてショッキングな暴力描写もなかった気がするので、どんどん子どもにも観せていったらいいのにと思った。中学生がこれを映画館で観られないのはもったいない。割りと多くの人生を狂わせることができそうなのに。

ニュークスにもう一度会いたいのでDVDでも買おうと思う。

emo

かつて所属していたサークルの追いコンに顔を出した。その上、恥じらいもなく朝まで後輩たちと飲んでいた。自分たちの代との雰囲気の違いなんかもありつつ、それでも彼らがそこにいたことに少しホッとした。

サークルに対して、今はもう後悔と自責の念ばかりがある。しかし、そこでの出会いや出来事を否定するつもりは毛頭ない。そこを軸として生活していたといっても過言ではなかったのだから。

先輩たちは癖こそ強かったが、軒並み優秀な人ばかりだった。彼らが拓き、耕し、種を植えた土地に水をやるのが自分たちの役目だったはずだった。だが、それをしくじった。台無しにした。それもくだらないことで。

しくじっている当人たちはきっと楽しかった。夢中で根を腐らせていた。割を食ったのが後輩だったのは言うまでもない。彼らの人生の一部を後暗いものにしてしまったのではないか。志を挫いてしまったのではないか。傲慢にもそう考えることがある。

たかがサークルのことである。しかし、だからこそ、ということもある。

ST.VINCENT

今日は学校のそばの名画座で「ヴィンセントが教えてくれたこと」という映画を観た。パンフレットの紹介文からして好みなような気がしていたのだった。まず、コメディであること、そして、漂うホモソーシャル感。

話の筋としては、認知症を患う妻をもつひねくれ者の不良ジジイと、その隣に引っ越してきた家庭環境の複雑さゆえにこまっしゃくれたいじめられっ子が色々あって仲良くなり、彼らが仲良くすることで彼らの周囲もまた幸福になっていくといったところである。

まず、出来の良い映画だと思った。会話の軽妙さは寒かったり、鬱陶しかったりするそのちょうど一歩手前くらいの塩梅で、上映中も何度か笑い声が起こっていた。不必要なカットもそれほどなく、103分という上映時間にぴったり収まっている感じがした。劇中曲も往年のロックミュージックがやはりという場面にあわせて流れる。その微妙なダサさがこの映画とうまくマッチしているのではないかと思う。芝生の生えていない砂だらけの裏庭でデッキチェアに寝そべりながらBob Dylanの「Shelter from the storm」を調子っぱずれに歌うエンディングはかなり好きだ。

ただ、話の筋も画面も特段新鮮ではない。退屈なところも多々ある。違和感があるところも非常に多い。何より、動機の弱さや問題の棚上げ、つまりご都合主義が目立つ。「なんで?」とか「あれはどうなったんだ?」というような場面が個人的には多かったと思う。特に、映画の終わり、体育館でのスピーチコンテストというとても盛り上がる場面がいまいちに感じた。この場面はありていに言うと、ジジイと子どもの仲直りシーンであって、それまで二人が触れ合ってきた人物がことごとく一堂に会すのである。そのオールスター感、パーティー感が気分を盛り上げてくれるはずなのだが、ここで出て来る脇役たちが作中を振り返ってみるとまさしく字の通り脇役なのである。飲み屋で飲み過ぎたジジイをたしなめる彼の友人は本当にそれ以上のことをしないし、ジジイの妻が預けられている介護施設の職員は小洒落た業務会話をいくつか繰り返すだけだ。子どもの父に至ってはこのジジイと面識がないばかりか、隣に仲良く座っている母親とは離婚調停で親権を争ったばかりである。スピーチそれ自体は良かった気もするので、残念だった。

ということは、そんなに良くなかったのかというとそうでもない。主役のジジイ、ヴィンセントを演じたビル・マーレイといじめられっ子オリバーを演じたジェイデン・リーべラーがとにかく良かった。ビル・マーレイは後悔したり思いつめたり、悲しげな顔がとても良い。脳卒中で倒れたあと、口がうまく回らなくなる様子は見事だった。ジェイデン・リーベラーはその見た目や所作から、一言も喋らなくてもはっきりとわかるくらい理知的でこまっしゃくれた雰囲気が全面に出ていて素晴らしかった。あんなにいじめられそうな子どもも珍しいと思わせられた。とにかく、役者がいいので、彼らが出て来るとそれだけで面白く感じられ、テンションも上がる。

移民、養子、シングルマザー、妊婦、風俗業、認知症、介護施設、宗教など、マイノリティや文化、社会情勢からも考えられるのかもしれないが、それはどうか。少なくとも今回はしなかった。また観ることがあればするかもしれないし、やはりしないかもしれない。

何にせよ、たまに観る映画としては良いと思う。

とりあえず

大したことでもないことでにっちもさっちもいかなくなり、また怠けた。

追い込まれてくると髪を引っ張る癖がある。抜けた毛や切れた毛がフローリングに散らばっていて汚らしい。髪を切りにいきたい。髪を切る度に、大きすぎる鏡に映った自分の姿を見て太ったと思う。実際、太った。痩せよう。

このところバラエティ番組の動画ばかり見ている。何かを得ようということではないと思う。単純に好きなのだろう。緻密な軽薄さが好きだ。

小感

現代詩手帖か何かで川田絢音が萩原朔太郎賞をとったということを知り、そのまま図書館で彼女の現代詩文庫を借りた。裏表紙に載った著者の写真が、髪型はともかく、どことなく母に似ていて少しがっかりした。

詩はそれほど読まない。いつも持て余してしまう。切羽詰ったもののように思うからかもしれない。普通に読めばいい、小説のように読めばいいと言ってもらえるが、どうなのだろう。そもそも小説も読めているのか?しかし、おぼえている。「なぜひとはかなぁしくなると/ほほの皮をめくってまで/うみへゆくのさ/(へらへらわらってんじゃねぇ)」聞くのも良かったし、真似して言えるようになった。括弧のことばにどきりとしたこともおぼえている。

川田絢音の詩にもピンとくるものはあった。たとえば、『空の時間』26、「ひっきりなしに/鳥も/突風も/流れる唇も/絶望的に燃えあがるポプラも/来て!」とか、『朝のカフェ』の「草刈り」、「外側から」とか(長くなりそうだから引用せず)。散文のようなもののなかでは「広場で」が面白い。

インタビューも併せて載っていた。子供の頃からもうすでに世界に対して違和感を覚えていた、それと関わり合う術として詩があった。こういう話はたぶん本当のことなのだとは思う。羨ましいし、寂しい。

痛々しく自他共に厳しい眼差しを多くおぼえている。そう考えると、去年の「子供が~」は驚くほどに優しかったのではないかと思う。いずれ、ちゃんと言語化したい。

 

いいひと

さっぱりと女っ気がなくなってから久しい。ありがたいことに、周囲の友人たちは私の臆病な気の配り方のためだと言ってくれる。進んでお言葉に甘えてきたが、たぶんそれはいけない。変えられるところは変えるべきだ。

これでも、何もしてこなかったわけではない。専攻が決まりだした頃、同じ学科の綺麗どころに声をかけていたこともある。いかにもお嬢様といった品の良さと距離感のあやふやさを湛えた彼女と何とかして関わりを持とうと、「薄桜鬼」の話を一生懸命にした。当時、肌に合わない食器用洗剤で洗い物をしていたせいで左の手のひらに無数の水泡ができ、それが破れ剥き出しになった皮膚から滴る黄ばんだ体液をせき止めるために包帯を巻いていた。彼女はそれを見て「大丈夫?」と心配してくれたが、やはり気色悪かったことだろう。今では百均で買った厚手のゴム手袋をはめて洗い物をしている。