Lesson

読んだり、飲んだり

小感

現代詩手帖か何かで川田絢音が萩原朔太郎賞をとったということを知り、そのまま図書館で彼女の現代詩文庫を借りた。裏表紙に載った著者の写真が、髪型はともかく、どことなく母に似ていて少しがっかりした。

詩はそれほど読まない。いつも持て余してしまう。切羽詰ったもののように思うからかもしれない。普通に読めばいい、小説のように読めばいいと言ってもらえるが、どうなのだろう。そもそも小説も読めているのか?しかし、おぼえている。「なぜひとはかなぁしくなると/ほほの皮をめくってまで/うみへゆくのさ/(へらへらわらってんじゃねぇ)」聞くのも良かったし、真似して言えるようになった。括弧のことばにどきりとしたこともおぼえている。

川田絢音の詩にもピンとくるものはあった。たとえば、『空の時間』26、「ひっきりなしに/鳥も/突風も/流れる唇も/絶望的に燃えあがるポプラも/来て!」とか、『朝のカフェ』の「草刈り」、「外側から」とか(長くなりそうだから引用せず)。散文のようなもののなかでは「広場で」が面白い。

インタビューも併せて載っていた。子供の頃からもうすでに世界に対して違和感を覚えていた、それと関わり合う術として詩があった。こういう話はたぶん本当のことなのだとは思う。羨ましいし、寂しい。

痛々しく自他共に厳しい眼差しを多くおぼえている。そう考えると、去年の「子供が~」は驚くほどに優しかったのではないかと思う。いずれ、ちゃんと言語化したい。