Lesson

読んだり、飲んだり

そろそろ酔い

酒にあかせて書いてみようかと思って見事に失敗している。

新しく始めたバイトは正直、つまらない。自分がいる意味が特に感じられない。仕事の内容も一人でできる。家でもできる。社員の皆さんはいい人。同族の匂い。

ラジオばかり聞いて過ごしている。地上波もネットも。お便りは思いつかない。自分にそう大したネタがなく、頭の回転も鈍いことが再認識できてよかった。気持ちの充実がリスナーの耳へと。

結局、ブロックバスターものが好き。しかし、書いてきたものはすべて越えるべき壁を越えられず錯乱する話か、越えられないということを認めてそれを良しとするものばかり。乗り越えて成長というエンターテインメントの基本を守ってみたい。

友達の家のギターはどうしてこうも鳴りがいいのか?音楽に詳しくない友人のため、ハロプロの曲をいくつか覚えた。「情熱の薔薇」をなぜ弾かなかったのか。もう一度行こう。今度はもっと良いワインを持って。

弟が帰ってきたが、これはまぁ今度。

文フリの申し込み、すっかり忘れてた。今日やった。抽選落ちたらどうしよう。出ないのは別に構わないんだけど紙にしたいなぁ。

スマホが古すぎてポケモンGOは出来ない。

ゴジラはもうちょいしたら見に行くよ。

教え子が地元から離れないから、社会人から中学生までみんなと会う。

さっき瓶が空いた。もう寝ます。

物欲

最近、むくむくと物欲が湧いてきて困っている。今回は文房具を少し買い足した。その中でもわりと当たりというか発見だったのは、0.7mmのボールペンが意外に使いやすかったことだ。今までずっと0.5mmばかりを使ってきていたが、よく考えれば私の字は確かに大きいので細いペン先で書いているとどうも見栄えが悪いというか惨めであって、しかも掠れたりもしていた。速度も出ない。こう考えてみると自分が0.5mmを使っていたことが不思議に思えてくる。

あわせてA4のノートを買った。スケッチブックで有名なマルマンのものだ。流行りにのって方眼のものを買ったが果たして使いこなせるだろうか。いいノートを買うと必ず、土台無理な話であるというのに綺麗にまとめたくなってしまう。アイデア出しの為に使うというが、そういった使い方をするとトピックがページの中であちらこちらに散ってしまうのはきっとあまり賢くないせいだと思う。

あとはポストイットの超徳用パック。本に貼る用ではなく、メモ帳の代わりにできるような大きめのやつだ。450枚ともなるとまるでブロックである。とにかく書き散らしていきたい。

他にもいくつかタスク管理アプリを試してみたり、Gmailを整理したりしてみた。こちらはわりと早く飽きるだろう。まぁ、ものは試しである。

食わず嫌い

どうにもミーハーな気がして手をつけないものが往々にしてある。私の場合はそれは谷崎潤一郎である。この作家に言及しない作家や批評家、研究者は果たしているのだろうか。事実この作家の作品には抜群に面白いものが多い。しかし、言及する者の絶対数が大きいぶん、その中身はピンキリで「なんかエロい」とか「普通の小説っぽくない」みたいなものも散見される。こういった評価も谷崎の重要な一側面をおそらく(無意識にせよ)捉えているのだろうとは思う。そういうキャッチーさが何というか妬ましくもあって遠ざけていた。

今回、課題とされたこともあって何とはなしに短編をいくつか読んでいる。これがまた面白い。というか凄い。「刺青」や「秘密」の描写は驚くほどに流麗だ。粘っこくしつこいものもあるがそれにはしっかり必然性がある。これは確かにいろんなことを言ってみたくなるし、真似してみたくもなる。話の筋から言えば、「幇間」がとても良い。個人的な感懐からうっかり泣きそうになる。

実は「細雪」のようなものは一度も読んだことがない。折を見て読もうと思う。

一日

「今日は一日充実していたか」などと問うことはもはや錯乱以外のなにものも示さないのではあろうが、それでももしかしたら必要な振り返りかもしれない。自分のうちに基準が存在しないまま努力を続けるというのは苦行もいいところだ。どんな些細な事であっても成したことを指折り数えてから床に就いたほうがよく眠れるに違いない。

基準の達成とは要するに、今の覚束ない毎日の営みから何かひとつ逸脱してみせるということだと思う。煙草を吸わないでみる、違う駅で降りてみる、挨拶からさらに話しかけてみる……。安い啓発だと笑えてきたが、まあいい。

もしも明日、死んでしまうとしたらという恐ろしすぎる想像が、そういった行動を後押しするらしい。とてもまともなものにはなりそうにないが、どうなのだろう。しかし、思い切りの悪さが今のうだつのあがらなさにつながっているのだから、死はともかく、やってみせろというわけだ。そのうちに何かあればめっけもんである。

娑婆

何がとは言わないがようやく終わった。ただひたすらにつらかった。

担当の形だけの放任主義と私の間の悪さが見事に噛み合って、最後の最後までお互いを認めることなく終わった印象だ。準備をないがしろにした自分の責任が大きいが、本当に体を壊すかと思った。精神的におかしくなる人もいるということが腑に落ちた。

私の場合、働きながら何かをするということはよほどのことがない限り無理だと思った。特にこの手の職業では。ここのところ、帰ってきてパソコンを開くということすらままならなかった。いわんや、本など全く読めない。何かしらをしていても常に次の日がちらつく。

それにしても、しばらくやってみないうちに驚くほど社会適合能力が下がっていたことに驚いた。相手を前にしてどもるなんてしばらくぶりだった。社会的な立場が上の人間とのコミュニケーションが下手くそになってしまった。ワンセンテンスを言い切らないしゃべりがやはり原因だろう。拾ってくれる人間が多い環境では困らなかったが世間ではそうもいかないらしい。当たり前か。

挨拶、お礼、報告、連絡、相談……。

計画を立てる能力を身につけないといけないのだということは分かった。確かに無計画に生きすぎたきらいはある。どこかでそのしわ寄せがくるだろう。今からでも先のことを考えるか。それはもうしょうがない。

 

資料収集

発表やら何やらで、国会図書館まで資料を見に行くことが増えた。

閲覧までタイムラグがあるし、手続きを行わなければならない機会が普通の図書館よりも多いし、何より自宅からとても微妙な距離にあるために、そこまで利用してこなかった。

それが最近になって少し慣れてきた。普通の図書館でよくやる、目的とは全く関係のない本や資料を漁るということが国会図書館でもできるようになってきた。テレビ番組やネットのまとめなんかでもよく取り上げられるように、あそこには日本で刊行されたもの全般、つまりゲームやDVDなどもまた所蔵されている。

試しにアイマスを調べると、ゲームとCDはほぼヒットする。ニュータイプアニメージュのような雑誌もあるようなので、「これはアイマス論が書けるな」などといらないことを考えることもできる。ただ惜しむらくは、ライブのパンフレットが所蔵されていないことだ。ライブのパンフレットや円盤に付属するブックレットなどにはスタッフや演者の制作秘話が語られることが多く、資料価値は高い。類似の発言はラジオや一般公開のインタビュー記事などでも確認でき、部分的な抜粋は熱心なファンのブログなどを漁れば一応把握することができるとはいえ、実物から得るところは大きい。

同人誌やサブカルチャー関連の刊行物を採集保管する機関もぽつぽつとあるが、どれほどの所蔵があるのだろう。ちょっと興味が湧いてきた。

こういった、ともすればすぐに忘れ去られるようなものを集めて残すということがどれほど難しく、そして残っているとどれほどありがたいかということを最近切に感じている。

Pass away

ばあちゃんシスターズの一人が逝った。

うちの親父が幼い頃、よく世話になっていた。

意中の男性と出かけるための口実として幼い親父を頻繁に連れ出していた、という話は親族のなかでは鉄板のエピソードである。

それだけに、親父にも思うところがあるようでしんみりとしている。目に見えて悲しんでいるという様子ではないが、不思議と見ていられない。

ここ何年かは隣の区の総合病院に入院していた。東京に暮らす息子夫婦が面倒をみやすいようにということであった。

年を重ねるにつれ呆けが進行し、最期にはもうよくわからなくなってしまっていたようだ。

危篤の連絡が入ってからすぐ、二時間もしないで逝った。苦しまずに逝けたのであろうか。

そうであったことを願う。