Lesson

読んだり、飲んだり

You can’t fight city hall.

行き帰りの電車のなかで森鴎外の「青年」を読む。

べつに面白くはない。

ただ、賢さがすごい。いわく言い難いものをなんとか考えよう、わかろうという必死さがこの時代にはある。あるいは、わかったような口を叩くことにためらいがなかったというべきか。

まあ、「青年」はそういう書き物をまたさらに批評的にみたものな気がするから、そう思うきっかけとしては素っ頓狂かもしれないが。

人、人、人。

いまはそんな気分。

 

 十一月三十日。晴。毎日几帳面に書く日記ででもあるように、天気を書くのも可笑しい。どうしても己には続いて日記を書くということが出来ない。こないだ大村を尋ねて行った時に、その話をしたら、「人間は種々なものに縛られているから、自分で自分をまで縛らなくても好いじゃないか」と云った。なる程、人間が生きていたと云って、何も齷齪として日記を附けて置かねばならないと云うものではあるまい。しかし日記に縛られずに何をするかが問題である。何の目的の為めに自己を解放するかが問題である。
 作る。製作する。神が万物を製作したように製作する。これが最初の考えであった。しかしそれが出来ない。「下宿の二階に転がっていて、何が書けるか」などという批評家の詞を見る度に、そんなら世界を周遊したら、誰にでもえらい作が出来るかと反問して遣りたいと思う反抗が一面に起ると同時に、己はその下宿屋の二階もまだ知らないと思う怯懦が他の一面に萌す。丁度 Titanos が岩石を砕いて、それを天に擲とうとしているのを、傍に尖った帽子を被った一寸坊が見ていて、顔を蹙めて笑っているようなものである。
 そんならどうしたら好いか。
 生きる。生活する。
 答は簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。
 一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
 現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
 そこで己は何をしている。
 今日はもう半夜を過ぎている。もう今日ではなくなっている。しかし変に気が澄んでいて、寐ようと思ったって、寐られそうにはない。
 その今日でなくなった今日には閲歴がある。それが人生の閲歴、生活の閲歴でなくてはならない筈である。それを書こうと思って久しく徒に過ぎ去る記念に、空虚な数字のみを留めた日記の、新しいペエジを開いたのである。
 しかし己の書いている事は、何を書いているのだか分からない。実は書くべき事が大いにある筈で、それが殆ど無いのである。やはり空虚な数字のみにして置いた方が増しかも知れないと思う位である。

これは上に書いたこととは関係ない。

おれの甘え。